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これを読むともう一杯飲みたくなる、片岡義男『僕は珈琲』

 珈琲好きには垂涎の一冊である。珈琲に関する書き下ろしのエッセイと、これまた珈琲に関する短編小説一篇が収録されている。
 
 珈琲(を飲む場面)は映画に出てくるし、歌謡曲でもそうだ。本にだってある。それは洋の東西を問わない。さらにいえば、喫茶店と珈琲は切っても切れない関係にあるし、マグカップや、珈琲豆を入れる缶のことなど、話題は尽きない。

 アメリカの珈琲がアメリカンと言われ、薄いのは、第二次大戦時に、軍が多くの珈琲豆を戦地に送ってしまい、本国で豆が不足したためだという。珈琲に関するもろもろの写真も多数掲載された楽しい本だ。

 珈琲とは外れるが、僕はこの人のモノに向かう姿勢、その描写力が好きだ。たとえば、「トレッキングブーツにチーノ、濃紺に白で細かい格子のある長袖のスポーツシャツのうえに、黒いナイロンのウインド・ブレーカー」ときちんと、その人物の服装を書く。
 
 またスリランカ産のジンジャー(生姜)ビスケットが入っている紙箱の糊をはがして、解体した場合の各部の長さと形状、それに組み立て方を約2ページにわたって詳細に書いていく。
 
 片岡ワールド全開である。1939年生まれ、御年84の人が書いた文章とは思えない。それほどみずみずしく、機知に溢れている。
 
 本書は珈琲好きに向けた蘊蓄本という一面があるのは確かだが、最後のエッセイ「こうも考えた」には著者の思想が現われている。
 
 片岡は、昨今の科学技術の進歩に、そして、それに唯々諾々と従っているかのように見える人たちに向かって、警鐘を鳴らす。科学技術は正しい操作を必要とする。正しい操作で得るもの以外にこの世にないとなったら、世の中には画一性が充満するしかない(スマホにかじりつきの人たちを想起せよ)。
 
 それに抗するのが、一杯の珈琲を飲む15分間。二度と戻らない、おそらく彼にとって(いや大多数の珈琲好きにとって)、大いなるイマジネーションを生み出す創造の時間なのだ。

片岡義男『僕は珈琲』光文社、2023年1月30日刊
 

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