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その地に同化し、自分を変える希有な旅沢木耕太郎『天路の旅人』

戦争は、実に多くの人間の運命を、実に意外な形で翻弄する。この本の主人公である西川一三(かずみ)もそうして翻弄された一人であろう。大戦末期、敵国である中国奥地まで、地理や政治、風俗、民心を探ろうと、「密偵(スパイ)」として入り込む。25歳のときだ。チベット仏教の蒙古人巡礼僧になりすまして。

大戦が終結し、日本は敗北。そのことを知った西川は巡礼僧のまま、旅をやめない。1950年、ついに身元がばれ、インドで逮捕、日本に強制送還される。出発からその八年間の、旅の記録、いや密偵の日々を、帰国した西川は文章に綴り、『秘境西域八年の潜行』という書物に著している。

こう紹介するだけで、ノンフィクションの題材にふさわしい魅力的な人物だとわかるだろう。しかも当人はその後有名になることもなく、岩手県の盛岡市で、化粧品屋の店主をやっていたというのだから、その現在との対比も面白そうだ(と沢木は思ったに違いない)。

インタビューの相手が病没

沢木の取材依頼を、西川は受け入れた。結果、2年にわたっての、沢木の盛岡詣でが続いた。毎月1回、週末に二泊三日でかの地を訪ね、夜、酒を飲みながら、二晩かけて、八年間の思い出を聞く。

ところが、沢木の目論見は徐々に外れていく。いくつかの収穫はあったものの、基本的に西川の口の端にのぼるのは『秘境西域八年の潜行』に書かれていることばかりだったのだ。

沢木はこの“題材”の料理の仕方に迷った挙句、西川に、いったん、取材の中止を申し出、西川も了承してくれた。

それから幾星霜、沢木はふと目にした週刊誌で、西川が病没したことを知る。これ以上のインタビューは不可能になった。

ところが、ここからが面白い。沢木は線香をあげに行きたいと、すでに知っていた盛岡の自宅に電話にかけると、西川の妻が出てきた。これまでは西川のみに関心が集中していたが、妻に話を聞いてみるのは面白そうだ。生憎、乳癌の手術の直後だということで、時間は制限されたが、その妻に話を聞くことができたばかりか、『秘境西域八年の潜行』の原本が家にはない、という意外な事実も知らされた。ではどこにあるのか?

深い森を歩く磁石、広大な海を航海する海図に

本書は最初に芙蓉書房から出され、その後、中公文庫版が出されているが、うまくつながらない箇所があったりして、どちらも完全版ではないことを伺わせるつくりになっている。沢木は中央公論社の旧知の編集者に連絡をとり、中公文庫版を担当した編集者につないでもらう。既に定年退職していたその(女性)編集者は、驚くべきことを沢木に告げた。「原本は私の家にあります」と。

本作の出発点となる材料がようやく出そろったのだ。最初の生原稿、最初の出版物である芙蓉書房版、その欠落部分を完全ではないが補ったかたちの中公文庫版、そして生前の西川の生声を(沢木が録音)した50時間に及ぶインタビューテープ、である。

『天路の旅人』の執筆ははようやく動き始めた。沢木はこう書いている。〈私は、この『天路の旅人』が、『秘境西域八年の潜行』という深い森を歩くための磁石のような、あるいは広大な海を航海するための海図になってくれれば、と願いつつ書き進めていたような気もする〉

ここまで、本書の内容よりも、その成り立ちに多くの紙幅を使ってしまった。内容以前に、その成り立ちがとても興味深いからだ。「本は本から生まれる」とよく言われるが、「本は、本と人から生まれる」というのほうが正しいかもしれない。

ではその八年の旅―ほとんどが徒歩か、ヤクなどの動物にまたがった移動によるもの。時には命を失いそうなハードな経験もあったーを経て彼はどう変わったのか。

八年間の心境変化

潜行生活の発端となった、満州にあった民間教育機関、興亜義塾に入る際、数少ない身の回りの用品のほかに、『吉田松陰全集』全十二巻を持ち込んだというから、その時点における彼の抱いていた思想が想像できる。

当時の彼は、このたびの大戦が日本にとっての聖戦であることを信じてやまない愛国心溢れる20代の若者だった。漢人(中国人)により、痛めつけられている蒙古族、チベット族、ウイグル族を糾合させ、中国の奥地に新しい秩序を見出すための活動が、自分の仕事なのだと思っていた。

それから八年が経って潜行生活があっけなく終わりを告げ、インドから日本へ強制帰国される船上で、西川はこんな感慨にふけっていた。

〈この戦争で、日本軍は、その土地その土地の人々の感情や習慣を無視して、どれだけの失敗を犯したことだろう。それは、多くは無知によるものだった。何も学ばず、知ろうともせず、ただ闇雲に異国に侵攻していってしまった。日本は、戦争をする前に、自分や木村のような者たちを、あらゆる国に送り出しておくべきだったのだ。あるいは、実際に送り出されていたのかもしれない。だが、その人たちは、自分たちのように、地を這うようには人々のあいだを歩くことをしていなかったのだろう。同じ言葉を話し、同じ物を食べ、同じ苦しみを味わったりはしなかったのだ……〉

愛国青年をしてここまでその心境を変わらせたものは何だったのか。その答えを知りたければ、ぜひ本書を手に取ってほしい。

『天路の旅人』新潮社、2022年10月25日刊行







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