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【小説練習】白墓逃走【短編】

ページをめくると一面真っ白だった。おかしいなと思い前のページに戻った。

そのページも真っ白だった。先ほどまで確かに文字がびっしりと並べられていた筈だ。僕はその羅列された文字の情報を、飲み流すように頭に入れた筈である。しかし、いつの間にか頭からそのページの記憶が消えてしまったのだ。読んだという記憶は残っているのだ。内容が思い出せない。昨日ご飯は食べた筈なのに、メニューが出てこない時の感覚に似ていた。

ページをパラパラとめくった。本から文字が消えていた。と同時に脳の中から文字の内容も消えていた。

表紙も真っ白になっていた。本がどういうものだったのか忘れてしまった。小説だったのだろうか。教科書かもしれなかった。もしかすると参考書だったのかも。だが、どうでも良かった。

とんでもない怪奇現象というものだった。普通なら、ここで怯えるなり、驚くなり、反応するのが人間というものだろう。いつもならそうしていた筈だ。今日の僕はなぜだかそうならなかった。

今日の僕は見惚れていたのだ。その白さに。

それは白だった。だが言い表しづらい白だった。それは辞書のような滑りと温かみを帯びた白のようでもあったし、機材に黙々と装填される無機質なコピー用紙の白のようでもあった。そして、それのどれでもないような気がした。

ただ一つ言えるのは、それは純粋無垢であった。名を持たぬ生まれた、いや、生まれる前の姿のようであった。なにものでもなく、なにものにも上書きされていないその姿に、僕は、見惚れた。そして、羨ましいと思った。

気づくと、僕の服は真っ白になっていた。真っ白な空間の真っ白な地面に立っていた。

墓場のような静けさだった。全ての色が吸い出されてしまったのか。宇宙の始まる前に戻ってしまったのだろうか。

僕は少し前のことも、ずっと前のことも、すっかり忘れてしまった。忘れてしまったというより、全てが0に戻った。そんな感覚だった。

僕は気分が良くなって笑った。さっきまでしみだらけだったものが、急に綺麗になった気分だった。腹を抱えて、笑った。忘れてしまったからわからないけど、たぶん人生で一番気持ちよく笑ったと思う。

走った。走って笑った。自由だった。羽はないが飛べるような気持ちだった。体の中身が全てくり抜かれたみたいで、足もチェーンの切れたペダルを漕いでみるみたいに軽やかに回る。足場の感覚も消えていた。前に進めているのか。その場で足を回しているだけなのか。どちらでも良かった。愉快だった。

僕は身を投げ、ぐるぐる回った。宇宙のように一度放ったら、止めるものはなかった。僕は笑い続けた。

回転もいつも間にか止まっていて、僕は大の字になっていた。

何ていい気分なんだろう。

真っ白だ。

そうだ。

僕は手を伸ばす。しかし、僕の何かチクっと僕の胸を突き、僕の手を止めた。

それをしてしまったら、終わってしまう予感がなぜだかした。

でも、僕はその魅力に抗えなかった。そんなことないさと言いつけた。

やめろ! 僕が叫んだ気がした。

それでも、やっぱり……。

僕は描くように、白の虚空に手を振り下ろした。

そこから白が裂けた。裂けた所には色が出来ていた。夜空の黒だった。僕は気分が良くなった。やっぱり大丈夫じゃないか。楽しいじゃないか。

だが、避けた所から様々な色が溢れ出し、津波のような波となり、僕を乱暴に包んだ。

僕の中身が一気に戻った。まっさらだった僕の心が、深く現実に濡れていくのを感じた。深く重い後悔を感じた。

×  ×  ×

様々な色の住宅街に囲まれた空は黒く染まり、その端には消えかけの夕焼けが霞んでいた。僕は小さな公園のベンチに座っていた。

青白い街灯が僕を弱く照らしている。手には本があった。好きな作家の本だった。

アイデアが出てこなくて困った僕は、古本屋でこの本を買った。でも、マンションに帰ると一人の部屋で自分と向き合わなくてはいけない。家には、数行で止まってしまっている原稿用紙がある。だから読んだ。帰り道のこの公園で。

内容は流し込むように読んでいたからよくわからない。だけど、読むうちに僕は嫌になっていたんだ。いつも嫌な気持ちだけど、今日はまるで栓が外れてしまったみたいに、不満やそういう黒い感情が、心から溢れ出ていた。

僕はこの手にあるものに憧れた。世界を作り出したかった。自分にしかないものを生み出したかった。

その未来を思い描いていた。夢を書きたかった。だが、夢を書くたびに見えるのは現実だった。この手にあるものは、僕から遠く離れた別世界にあるものだった。いくら叶えたくて掴もうとしても、僕の前の、数えきれないほどの人が僕を押し退けて掴もうとする。僕自身の手では全然届かないことを僕に思い知らせようとする。

だけど、もはや僕は手を伸ばすしかない状況にいた。

だから僕は焦っていた。焦りからシャーペンを走らせても、結局は滲んだ消し跡が、積み重なって紙を黒く染めていくだけだった。しまいには手すら止まってしまい、僕の中にあったものはすでに錆びついてしまったように輝きを失っていた。

憎くて、苦しかった。

憧れるべきではなかった。目指すべきではなかった。

しかし、今となってはもう遅い。

始めてしまった文章は、書き続けるしかない。書き切れるのかも、破り捨てられるのかもわからない。ただ、終わるまで、僕はずっと歯を食いしばりながら、紙に向き合い続けるのだろう。

だけど、誰が一体終わりを告げてくれるのだろうか。

僕は立った。そして歩いた。とりあえず、僕はそうするしかなかった。薄暮の町は夜の静けさを受け入れつつあった。

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