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徳積みのつもりでやっていたチャリティが、まさかこんなことに繋がっていたとは!

先日こちらの記事にも書いた通り、
わたしは今、
自身の誕生日企画として、
セッション売り上げの全額を寄付する
というチャリティ企画をやっていた。

ことの発端は、
わたしの中でライトワークセッションを自分の利益のためにやることはしたくない!
という気持ちが芽生えたことにあるのだが、


やってみて
本当にたくさんの気持ちを味わい、
想像ではない、
リアルな感覚が深くに刺さるような
学びの宝庫のような毎日を過ごしてきた。


この企画を思いついたとき、
わたしはとても幸せで、
これこそ最高の仕組み!と喜んでいた。


とても理想的だった。
やりたくてしかたなかった。


でもそれは、浅かった。
まだまだ、遠くから眺めていたから美しく見えていただけだったのだ。


セッションが売れていけばいくほど、
笑顔が消えていく自分を感じた。


100%寄付に回す
というところに描いていた喜びは
実際のところはさほど大きなものではなかったように思えた。

それどころか、
よかれと思って自分で企画し
自分で運営しているくせに、
誰かにやらされているわけでもないのに
イライラしてきていた。
(笑えないけど笑っちゃう話)


わたしはこの仕組みのままセッションをして
幸せなのだろうか?
モチベーションは上がるのだろうか?
クライアントさまに誠実に向き合えるのだろうか?

左脳が「美徳だ」という
美談に
うん、と言わない潜在意識の声。


そんなものが、湧き上がってきた。


--結局わたしもお金が欲しいし
お金を全く受け取らないなんてしたくないんじゃないの?--


そんなものが
見え隠れしてきた。


この気持ちを持ったままにしておくことも
そこに気づきながら企画を回し続けることも
嫌だった。


これではダメだ。
噛み合っていない。


そんな違和感が強くなり、
見直す勇気を持とうと決めた。


わたしは、
自分もメリットを受け取る
ということに罪悪感を感じる節がある。


「なんだ、結局アンタも美味しい思い、するんじゃん」
と、囁く声が聞こえる。
いや、ほんとこれ、誰の声?意地悪だわー
まさに、こんな状態


自分も豊かになることへの罪悪感

これがあるからこそ、
100%チャリティ、は
非常に美しく響いたのだ、最初は。

そこ、課題だなーと
改めて思ったところです。


でも、
実際はわたしだって潤わなきゃ、
得るものがなきゃ、利益やメリットがなきゃ、
やれないのだ。


そこには
なんの罪悪感も要らない。


数秘術でいうところの
ソウル6の為せる悪事。

自分が枯渇してでも尚、他者に差し出そうとするクセ
それを美徳とするクセ

これは、
6という数字で表されるエネルギーの
ネガティブな作用なのだ。


そうならないようにバランスを整えないと
幸せにはなれない。


セッションでクライアントさまにお伝えすることを、自分にしっかり聴かせなければならない場面に出くわした、というわけ。


そこで、
自分にもメリットが出るやり方を選ぶ
という、わたしにとっては認めるのが怖い(人からどう思われるか、が怖い)道を選び、


とあるメディアへの広告枠に
無料でインタビュー記事を載せられる
その掲載条件の売り上げ金額分を
100%チャリティにすることにした。

本当は
その売り上げは自分の努力で達成したのだし、
その対価としてセッションがあるわけだから、チャリティに回す義務はない。
言い出した過去の自分に、縛られているだけ。
100%チャリティに回します、という告知を見て申し込んでくれたクライアントさまへの約束を果たす責任、と思っているけれど、

それもぶっちゃけ、どうだろう?


クライアントさまは、
そこを求めて申し込んだのか?


聞いてみないと分からない。

もしかしたら、
わたしが思ってもいないような使い道を
実は望んでいる方もあるかもしれない。


分からないことだらけ、なのだ。

結論、
クライアントさま一人一人に
今回のセッション代の納め先について
希望を伺おう、というところで
今は着地している。

聞いてみることでまた
たくさんのことが分かるだろう。


今のわたしはとにかく
やってみてわかる領域に進み続ける
ということを、ミッションとして授かっているようなのだ。


タイトルの、
徳積みのつもりでやっていたチャリティが、まさかこんなことに繋がっていたとは!
に話を運ぶと


これは、
わたしがお金をどう捉えているか、
に直結する問題だった。


お金を受け取らないことを美とする
そんな価値観に
憧れていたのかもしれない。


実際やってみたら嫌だった。
だから、心底から望んでいるわけではなかった、ということだ。


己を空っぽにしてでも人に与える
という、
空也上人の在り方に


憧れを抱きながら近づき
わたしはそうではなかった
(わたしはまだ、そうではなかった
なのかもしれない)
と、気づいたのだ。
上人ではないのだから、当たり前かもね。
この領域までいくには相当の鍛錬が必要なのだろうし、同時にそこに至る必要はないのかもしれない。

お金をもらうこと
お金を稼ぐこと
自分も豊かになること
自分もメリットを享受すること
自分も幸せになること


それを許可できなかったわたしは
チャリティ
という言葉に惹かれて

この
豊かさを遠ざけるブロックを美化し
それを強化する道を
歩もうとしていたのかもしれない。


自分がすでに十二分に潤い、
儲かり、
お金持ちで、
贅沢もたくさんして、
お金があることによって叶うメリットを享受し尽くした上で、


他人にも与える。


これでも、いいのではないか?


お金について、
たくさんのお金を手にすること、について、


アップデートするときに来た気がしている。


続きます🔥

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