死ねば皆 仏様になるわけではない=天国泥棒は あり得ないということ

日本では お葬式の時に亡くなられた方を仏様とお呼びすることがありますよね。でも 本当は死ねば誰でも成仏して、仏様になれるわけではないのです。

生前の思いと 行いが 仏様や神様の心と離れる生き方をしていて 天国や極楽に還れるわけがありません。

しばらく反省の期間は 地獄に行く事があります。(地獄というのは一種の病院のようなものだとも聞いた事があります。)

この地上に生きているということは 魂修行の場 魂の進化の場として神仏より与えられているので その中で自由意思を持って生きぬいてかつ、道を誤らなかったかということが試されているのかもしれません。

心の欲するところに従えども矩を踰えず

というのは 孔子様の言葉ですが、 何ら外からの規制を受けなくても道徳的に正しい行いを取れるかということです。

例えば無人販売所に置かれた農産物を お金を払わずに持っていったり 少ない金額しか入れなかったりするといった動画などをユーチューブでも見ましたが 人が見ていないところ 罰がないところでも 自分の欲を抑えて 自分を律する事が出来るかどうかです。

人間は神仏の子として 皆 仏性があり尊い存在です。

悉有仏性 (しつうぶっしょう)

と言いますね。皆 仏様の性質を持っている。愛の心や慈悲の心を持っている。正しいことを為そうとしていると信じることは大切だと思います。

でも 皆が成仏出来る 皆 仏様になれるというのは間違っています。

悉皆成仏論(しっかいじょうぶつろん)

は間違いです。

人が見ていなかったり 罰が与えられないような環境下では 人のモノを盗んだり 嘘をついて騙したりするような人も出てきます。

悉皆成仏論というのは 人間を堕落させてしまう危険性があります。

また この教えを信じていたら 天国に行けるという信仰にも 本当に 天国に行ける場合もあるけれども 信仰して地獄に行ってしまうケースもあり、念仏地獄というものもあるようなのです。

つまり 自分の心や行いを見つめることなく 他力的な 念仏さえあげていれば極楽往生出来るという考え方にも 神仏の心とは違うものが入っています。

大いなる存在に帰依するという 人間の小さな計らい心を捨て去るという良い側面もありますが 神仏の子として積極的に自分の道を切り開くという意思の欠如。

他人のために 世の中のために自分を役立てていこうという積極的な意思が 欠けている場合があります。

又は 教団に献金をしたら 罪が許されて救われ、成仏出来るというのも間違いです。

心が大切なのです。

地獄に対する恐怖感や先祖が成仏していないから献金さえすれば救われるというのは間違いで、本当に 愛の心があるかどうかです。

信仰を持たない人や唯物論の人は 高額な献金や布施自体を悪いものとして捉える事が多いのですが

三輪清浄 という布施に対する見解も知って欲しいなぁと思います。

「与える人」と「受ける人」と「与えるもの」の三つが清浄でなければ、布施は成り立たないと言われているのです。三つともが清浄、要するに穢れを離れていなければいけないのです。
では、穢れを離れるとは、いったいどういうことでしょうか。それは、その三者に何かの不浄、執着があってはいけないということなのです。人にものをあげるときに、「ああ、悔しいなと思いながらあげることがあります。たとえば、本当はしたくないのだけれども、熱心に言われるから、しかたなくしぶしぶ献金する。
それから、「乞食なんか死んでしまえ」と思いながら、「みんながあげているから、しかたがない」ということでお金をやる。このように、いやいやながらあげたり、あるいはお金やものに執着がありながら、やむおえず出したり、人目を考えて、虚栄心、見栄から出すことがあります。
このようなときには、施者、つまり布施をしようとする人の心に穢れがあるので、もはや功徳のある布施にはなりません。それから、布施を受ける側に欲得がある場合、不浄な考えがある場合も駄目です。
たとえば、「義援金を募ります」「恵まれない子供たちのためにお金を集めています」と言いながら、実際には集めたお金を横領して他のことに使っているといったことはいくらでもあります。難民救済のための缶詰を送ったら、横領して売っているといったことは、発展途上国にはよくあると伝えられています。
きちんと届かずに、途中で市場の商品に化けていることがあるのです。こんな布施は成り立ちません。受けたほうがそのような気持ちでは、まったくだめです。要するに、受けるほうの気持ちも大事なのです。ですから、
与える方が、非常に清々しく、爽やかな、執着のない心で与え、受け取るほうも感謝の心で、「それを大切に使いたい」という気持ちで受ける、このように、両方ともに我欲を離れた気持ちが大事です。
それから、与えるもの自体が清浄であること、すなわち、たとえば盗んできたもの、いかがわしいもの、あるいはふさわしくないものを与えるというのはよくないことです。

ー大川隆法  悟りの挑戦 下巻 p144ー

神社や仏閣 キリスト教の大聖堂等も やはり神仏を思う人々の信仰心からなる布施や献金があればこその施設です。

(共産主義の過多のなかにはそれを搾取と言ったりする人もいて呆れてしまいます。)

法律も犯さず生きてた 人から後ろ指を指されるようなことはしてこなかったという人であっても 心の中に 他人への恨みや 怒りを抱えたまま 亡くなったような場合は天国には還れません。

自分も他人も赦し 自分も他人も愛せる心境にならないと  なかなか 天国には還れないようです。

また 自分の地上に生きている生きている間、時間や財産 才能を 自分の為にだけ使って自己中心的に生きてきた人も 霊界に還ると後悔することが多いようです。

フランスの19世紀半ばに出た アランカルデイックの 霊との対話 、天国と地獄にはそんな例が山ほど出てきてます。

他人のせいや 環境のせいにしてはいけないというのは 天国地獄の違いや 生まれ変わり等を知ると深く納得できるものです。

地上だけがすべてだと思うと 世の中に理不尽さや 不正に対して怒りを向けるだけに終わりそうですが すべて学びの為に用意された環境だと思うと 見方は違ってきます。

とはいえ まだまだ その境地に達してはいないのですが。

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