私は主 エルカンターレを信じます

「神様を信じます」

「主を信じます」

「主エルカンターレを信じます」

こうして 書いてみると 上の二つまでと 

「主エルカンターレをを信じます」というのは意味が大きく違うように感じます。

主エル・カンターレを信じますというのは 現在進行形で教えが説かれているということと 神様の言葉を伝える方がまだ地上に生きているということ 。そして 神様の言葉を伝える預言者ではなく 主なる神であるということ 。

それを信じている人々が世界で162カ国に拡がっているということです。けれども80億に達しようとしている世界人口のうちに 今降りている神の言葉を無視したり 嘲笑したりする人々の勢力のほうが 大きいかもしれません。

「信じる人達」と「信じない人達」との間にたつとその温度差がとても大きく感じるものです。

今  キリスト教徒として イエス様を信じている人達も イエス様が在世当時なら 神の言葉を伝える人だと信じてついて行けたでしょうか。それと同じ困難さを感じます。

しかし、イエス様の時代もそうですが 救世主と呼ばれる方が地上に降りる時代は 人類にとっては危機の時代であることは ユダヤ キリスト教の文化圏の方々にとっては 共通した認識であるとも聞きます。日本神道的な発想では 十字架にかかられた方を神の子として信じることが なかなか受け入れ難くて 日本ではキリスト教は 拡がらなかったたりとも 聞きます。

日本神道 仏教 儒教 という教えが 既に生活の中に根付いていた日本では 宗教大国でもあったのでしょう。仏教が日本に伝来した当初は 新しい宗教であった仏教を受け入れるまでのの戦いもありましたが 1000年を越えて仏教も神道も融合してきたように思います。母の実家にも神棚も仏壇もありましたし 毎日 神棚に参拝する伯父の姿も目にしていました。戦後の教育の中で こうした日本人の生活とも密着した信仰心は 徐々に 徐々に薄れていってしまい、紙のように薄くなってしまいました。

そういった時代に 日本に 主エル・カンターレとして 大川隆法総裁が降りられたという ことを信じるかどうか。

今年の経典として 「メシアの法」が下ろされています。

まず 霊的世界が実在の世界で そのいちばん上に神様がいらっしゃる

神は造物主であって、 人類やいろいろな生き物を創ってこられたし、地球の歴史をつくってこられた

いろいろな人をこの世に下されて、遣わされて、そしていろいろな時代の、いろいろな文明をつくってこられた。

そのなかには、巻き込まれて幸・不幸がいろいろあり、濁流に呑み込まれたようなヒトもいるではあろうと思いますけれども、時代が悪ければ、時代を変えていくこともやった。

神の使者でも、この世で死んでいくようなことも数多くあった。

しかし、「その愛の流れは一度も止まったことはないのだ」ということです。

ご一読 いただければ幸いです😄




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