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弁論「努力信仰」(2024年1月 会内選考会 / 第2席)

2024年の1月に行われた会内選考会でやった弁論です。日吉杯の出場枠を争いましたが、残念ながら敗退(2位)しました。

一番下に解説をつけておきます。



導入

「それはお前の努力不足だよ」
そんなことを言われてきた人生でした。私のことをよく知っている人間なら、「いわれてそうだな〜」となんとなく察することと思います。私は昔から飽き性で、何かに一生懸命取り組むことが苦手でした。学生時代がんばったことと聞かれて胸を張って答えられるのは、弁論くらいしかありません。

そんな私にとって、聞き捨てならない事件がありました。去年の夏、雄弁会のメンツで大阪の合宿に行ったときのこと。梅田の飲み屋街で、後輩にこんなことを言われたんです。
「俺、めちゃめちゃ努力すれば、なんでもできるようになると思うんですよ。うまくいってない人って、努力してないんだなって思っちゃいます」

そのときには、ついつい感情的になってしまい、うまく反論することができませんでした。

彼のような考え方は、梅田の飲み屋だけにあるわけではありません。去年の弁論大会での話です。被害者の救済を訴える弁士に対して、このような野次が飛びました。「それは当事者が努力すればいいじゃないか」。

努力すればいいじゃないか。一見妥当なようにも聞こえますし、ついついいってしまいがちです。でも、この考え方には、ある、重大な見落としがあります。今日は、物事を努力不足で片付けてしまうことの問題点について、お話していきます。


努力・努力主義の定義

では、本題に入る前に、努力とは一体何かについて整理していきましょう。例えば、私が野球選手になりたくなって、一時間だけ死ぬ気で素振りをしたとします。さて、私は努力したと言うことはできるでしょうか。少し、違和感がありますね。努力というためには、継続的に何かを行う必要があります。
また、私はかなり飽き性なので、ある日にはゲームをやったり、ある日にはピアノを弾いたり、ある日には勉強したりしています。一方、A君という子は、野球選手になるために、ある日には素振りをして、ある日にはキャッチボールをして、ある日には走り込みをしたとします。二人とも、毎日違うことをしてはいます。しかし、努力していると言えるのは、野球選手という目的に突き進むA君だけです。

このことから分かることは、「ある目的を持って、継続的に、一連の行為を行うこと」。これを、私達は努力と呼んでいることが分かります。

さて、私が問題にしたいのは、「努力すればいいじゃないか」と言って、問題を努力不足で片付ける考え方です。ここではそれを、努力主義と呼んでおきます。

努力主義には、二つの前提があります。


  • 一つ目は、「努力すればなんとかなるだろう」とする発想

  • 二つ目は、「誰もが十分に努力できるだろう」とする発想です

努力主義の代表例:自己責任論

この努力主義と強く結びついたのが、自己責任論といわれる一連の言説です。自己責任論は、ちょうど私たちがうまれたくらい、つまり、1990年代後半から2000年代前半にかけて広がりました。様々ある自己責任論のうち一つが、ある結果の責任をすべて本人の努力不足のせいにするものです。代表的なものとして、生活保護への批判が挙げられます。

「生活に困窮しているのは、本人が努力しなかったからだ」
「努力する責任はすべて本人にあるから、政府が保護する必要はない」

行き過ぎた自己責任論は、あらゆる問題を「努力しなかったお前が悪い」と片付け、弱者の切り捨てや格差の存在を、正当化してしまいます。「どんな問題も、努力すればなんとかなる」と考える努力主義は、このような言説の強い味方です。

しかし、生活に困窮しているのは、本当に努力していないからなのでしょうか。本当に、努力すればなんとかなったのでしょうか。生活保護を受ける理由というのは人それぞれです。世帯主のケガや病気、失業。努力してもどうにもならなかった、なんらかの事情で、努力することができなかったという人もいるはずです。

このように、「努力すればなんとかなるだろう」という発想と、「誰もが十分に努力できるだろう」という発想は、現実的とは言えません。しかし、中にはこんなことを言う人もいるでしょう。「いやいや、ハンディキャップがあったって、それを乗り越えるだけの努力をすればいいじゃないか」「現実的ではないかもしれないが、やろうと思えば、十分に努力はできるのでは?」
しかし、もし仮に努力すればなんとかなったとしても、もし仮に、誰もが十分に努力できるとしても、物事を努力不足に還元することには問題があります。大きく分けて二つです。


努力主義の問題点

まず一つ目は、努力する負担を誰かにおしつけてしまうということです。

自己責任論は、当事者だけに責任を押し付ける構造を持っています。しかし、問題を解決するために努力をしなければいけないのは彼らだけではないはずです。つまり、本当は社会全体で解決しなければいけない問題を、当事者にだけ押し付けてしまっているということです。「努力すればなんとかなるよ」という言葉は、この状況を正当化します。しかし、誰かがめちゃめちゃ努力することで初めて実現する平等を、公平と言うことはできません。


努力主義のもう一つの問題点は、当人が置かれている状況を見えにくくするということです。

一年前の弁論大会シーズン。つまり今の二年生たちが出場していた時期のことです。弁士の原稿がギリギリまで書きあがらず、前日の深夜にみんなで書き上げるというイベントが何度か発生しました。雄弁会では、弁論大会終了後に、反省会が行われます。一年前の反省会では、次のような結論がよくありました。

「今回の反省点は、弁士が早く原稿を書かなかったことにつきる。次からは、もっと早く原稿を書こう。」

確かに正論です。しかし、弁士の努力不足で片付けている内は問題は解決しません。なぜ弁士は原稿をギリギリまで書かなかったのか、いや、書けなかったのかを考える必要があります。テーマが決まらない、構成の組み方が分からない、弁論特有の論理を理解していない。今では立派に弁論技術を習得した二年生たちも、当時はまだ、弁論といったら小野梓杯でやった経験しかありません。だからこそ早く書き始める必要があるのはもちろんですが、それ以上に、弁論が書けない原因というのを抱えているはずです。努力不足で済ますことなく、きちんと、原因を追及する必要があります。

まとめると、問題を努力不足に還元してしまう努力主義は、当人が置かれた状況を見えなくすること、そして、一部の人に努力を押し付けてしまう危険性を孕んでいるのです。


人は努力主義に走りやすい

努力という概念は基本的にはポジティブに捉えられます。ですので、油断すると人はすぐに努力主義的な思考に走ってしまいます。いわゆる、自己責任論はここ20年でだんだん下火になってきましたが、それ以外の領域では、努力主義はまだまだ根強く残っています。政治的な議論だけではありません。企業や、学校や、もちろん私達雄弁会にも、ふとしたことで努力主義が台頭する可能性は十分にあります。

誤解の回避

留意してほしいのは、私は決して、努力はしなくてもいいと言っているわけでも、努力は無意味と主張しているわけでもないということです。努力したほうがいい場面は多いでしょうし、多くの場合において努力は必要なものであることには違いありません。ですが、それがいきすぎると、「努力すればだれでもなんでもできるようになる」、「うまくいってない人は努力していないだけだ」、という考え方になってしまいます。このような考え方は、問題を努力不足として片付け、努力の負担を一部の人に押し付けてしまうことに繋がるのです。


具体的な行動

みなさんにも、今後、努力不足で片付けてしまいそうになる瞬間がくるでしょう。そんなとき、どうすればよいのでしょうか。もし、自分以外の誰かが、一見サボっているように見えたときは、相手の態度を責めるよりも前に、「相手がなぜやらないのか」、「なぜできないのか」を考えてみてください。隠れていた重大な要因が見つかるかもしれません。そして、もし、誰かの努力不足に腹が立ちそうになったら、もう少し考えを膨らませて、「その人だけに努力が強いられていないのか」を考えてみてください。もしかすると、その努力はみんなで背負うべきものなのかもしれません。努力主義の外から世界を見れるようになれば、私たちはよりよい社会を作れるのではないでしょうか。

ご清聴ありがとうございました。


解説

努力主義に基づく言説と、この弁論のような努力主義批判は、一体何を争っているのだろうか。簡単に言うと、どちらも責任の所在について争っているのである。

この社会では、なぜだか分からないが、原因について言及することは、責任の所在を言及することと同一視される。そして、責任の特定作業のほとんどは、原因の特定作業となる。

A君「せんせー!B君が花瓶を割りましたー」
B君「だってそれはA君が押したからだよ」
A君「先に押したのはB君じゃん!」

例えば、A君とB君は、別に原因の特定をしたいわけではなく、原因について言及することを通して、責任の所在を明らかにしようとしているのである。

※ただし、この事実から 責任=原因 と確定することはできない。責任の決定要因は原因以外にも存在する。(例: 能力、役職)

雑談: 言い訳にならないように理由説明を行うためには、自分の外にある要因への言及を避けなければならない。究極的には「努力不足」「不注意」「意志の弱さ」「能力の低さ」などに帰着するしかなくなる。しかし、このような原因特定で、なにか解決が見つかるとは考えにくい。

「努力」という概念は通常、あらゆる環境要因や、生得的要因とは独立し、かつ凌駕する要因として想定されている。そして、「本人の自由意志によってどうにかできるものである」ということが想定されている。

それゆえ、「努力」なる概念を仮定することで、当人以外に責任が帰着することを防ぐことができるのである。

この弁論は、そのような努力観による、責任の集中と外部要因の不可視化の危険性を訴えたものである。

元々、この弁論はもっと強い主張をするつもりだった。つまり、「努力も結局は才能。だから、責任は存在しない」と主張しようとしていた。しかし、この社会が責任という概念を媒介にしてうまく回っており、また責任があることを前提に議論が行われていることを踏まえると、この主張をすることは適切ではないと考えた。

しかし、責任は「あると思えばあるのであり、ないと思えばない」という類のものであるという考え方には変わりはない。ただ、社会の一構成員として、責任はあるものとして振る舞う必要があるというだけだ。


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