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子供の頃の恐ろしい思い出

昭和35年~38年、私が9歳~12歳頃、バスが通る道さえ舗装がされてなく、子だくさんで、三世代同居が当たり前の時代の話である。
 
◇右手首に鎌 
 3月初旬、旧暦の初午の日、地区の山中にある稲荷堂では毎年祭が行われた。まず神事が催され、その後、煮締め物や甘酒が振舞われた。皆が楽しみにしていたのは、その後の餅まきや行商のおばさん「かっちゃん」が撒く、くじ入りの飴や菓子であった。ほぼ村中の人が集まり、皆が本気モードで拾った。終った後は、お堂の周囲だけ磨けていて「村人どもが欲の跡」を物語っていた。
 帰路は2本ある参道に分かれて、狭くて急な坂を、戦利品を提げて一列で下った。ちゅうかんたれ(わんぱく)だった私は、早く下りようと、そんな状況下を人を縫って駆け下りた。そして二つ上の久美ちゃんが握ていた鎌で右手首を切った。
 山を下りたところの家(田平)で応急手当をしてもらう時、開いた傷口から白いのが見え、身震いがした。
 当時の傷の手当てと云ったら、ヨモギを叩いて傷口に被せ、手拭いで縛る位であった。その後医者に行くことはなかったと思う。
 今見ると、右手首内側の横紋に沿うように、小指側から4㎝と、起点が同じでV字に1㎝の傷が残っている。傷の起点(V字の尖った所)の下に豆状骨が触れる。もし前後どちらかに1㎝ずれていたら、大きな後遺症が残っていたかもしれない。

 ◇自転車で川に転落
 当時、まだ自転車は貴重品で、子供用や婦人用などはなかった。小さい子はフレームの間から片足を入れ三角乗りをしていた。我家に有った自転車は他家のとは違い、ペダルを逆廻しに踏むとブレーキがかかる厄介な代物だった。
 巾1.5m程の川沿いの道で、遊び友達数人と自転車乗りをしていた。足がとどかないので、道路脇の田の畦からサドルに跨った。少し乗れるようになっていた頃で、調子に乗って、何気なくペダルを逆に踏んでしまった。急ブレーキがかかり、バランスを崩して、右を流れる2m下の川に落ちた。間髪を入れず、自転車が腰の辺りに落ちてきた。ゴロゴロした石が水面に出てる位の浅瀬だったから溺れる心配はなかったが、痛くてしばらくは動けなかった。
 友達が家に知らせに走ってくれたのだろう、祖母が悲壮な声で私の名を叫びながら、駆け付けてきたのを覚えている。その時大きな怪我はなかったが、後々まで、左股関節の辺りに時折神経痛が出るようになった。
 治療に2回/月決まってみえる、近くの87才の男性、喜ちゃんにその話をしたら「そらコスターじゃ」と言われた。直ぐにネットで調べ、長年の疑問が解決した。家にあった自転車はコースターブレーキ付きだったのだ。その後、前輪用手ブレーキが追加された物が出て、そちらは「重コスター」と呼ばれていたそうだ。
 
◇足に竹の切り株
 家の下が川だったこともあり、子供の頃は魚捕りに余念がなかった。網ですくったり、自作の竹竿で釣ったり、石の下に手を入れて捕まえたり、私にとって川は庭みたいなもので、そこで多くの時間を過ごした。
 おそらく夏だったと思うが、魚を釣りながら、イトナガ(井堰)、シンゲ(井堰)、ワサダ(井堰)と川を遡った。ワサダイゼ(井堰)尻の田の畦から、一段低い川岸に竿を持って飛び降りた時、おなごだけ(女竹)の切株が履いていたゴム草履を突き抜けて刺さった。どうにか家まで帰り、母に状況を話すと、消毒には卵の白身が良いからと、塗って手当をしてくれた。
 ネットで調べると、卵白には「リゾチーム」という殺菌作用のある酵素が含まれていて、それは防腐剤や風邪薬に使われていると書いてあった。足の裏を鏡や虫眼鏡を使って調べてみたが、若い時分にはあった傷跡をどうしても見つけることは出来なかった。
 
◇右足にカラス蛇
 魚をすくう網は直径15~20㎝程で、金属製の枠が金色だったので「きんたぶ」と呼んでいた。使い方は「待ち伏せ」と「追い込み」があった。「待ち伏せ」は、先ず網の底に流れで反転しないよう重りの石を入れ、イゼ(井堰)から続く水路の始まる所まで走り、すかさず網を入れる。水路に居た魚は人影に驚き、一斉にイゼに戻ろうとして、自ら網に入るという訳だ。これはスピードが勝負で、三網がせいぜいだった。「追い込み」は、魚の逃げ道に網を入れ、竹棒や石を使って魚を追いたてるやり方だ。
 ワサダイゼ(井堰)を向こう岸に渡り、畦道を川に沿って上り詰めた所から川に降りた。膝位の浅瀬で、いかにも魚が潜んでいそうな沈み石の下手に網を入れ、魚を追い出すため、ゴム草履をはいた右足を石の下に突っ込んだ。途端に痛みを感じ、足を引き上げた目に飛び込んだ光景は、何とも悍ましいものだった。指に嚙みついたカラス蛇(ヤマカガシ)が引き上げられ、宙に舞って水面に落ちた。私は右は裸足で跳んで帰った。
 以来カラス蛇を見るとゾッとするようになった。その話をする度に母は「カラス蛇に嚙まれると長者になると昔から言う」と言っていた。めったにないことなのだろう。宝くじを買ってみるのも有りかもしれない。
 日本に住む蛇の食性をネットで調べたところ、ヤマカガシの欄にだけ「魚」とあった。足の指を魚と思って嚙みついたのだろうと、妙に納得したのである。
 一昨年の7月、ヤマカガシを素手で捕まえた小学5年生が、毒で一時意識不明になったというニュースがあった。当時毒蛇だと解っていたら、どれほど心配したことだろう。

 ◇川で溺れる 
 まだプールなどない時代だった。夏休みには、小学4年生位までは小川のワサダイゼ(井堰)で、5年生位になると、中学生と共に大川のメイブチ(淵)で泳いでいたように思う。
 水着などは持ってなく、男児は白のパンツ、女児も小さい子は上下に丸ゴムの入った白のパンツ、少し大きくなると上にシュミーズを着ていた。中学になっても同じだったろうかと疑問に思うが、女子はおそらく来なくなったのだろう。
 メイブチはすり鉢状になっていて、川幅は十数メートル、水深は深いとこで3mはあったと思う。当時、泳法は犬かきとどたばたクロールだった。息継ぎはいちいち頭を持ち上げていたので、15m泳ぐのがやっとというとこだった。
 瀬が淵に流れ込む辺りで、流れに逆らって泳いでいて、気づいたら足が届かない所まで流されていた。元の場所に戻ろうと必死で手足を動かした。いくらもがいても流されるばかり、手足は疲れ、水に飲み込まれる死の恐怖に襲われた。
 浮き沈みしている私に、周りの子達も気付いたのだろう、敏隆ちゃんが助けに来てくれた。近くまで来た時、誰かが「掴まれたら、引っ込まれるぞ」と叫んだ。彼は近づくのを止め、「こっちに来い」「こっちに来い」と大声で誘導してくれた。私は声のする方に向かって、残った力を振り絞り、水面をかく、というより叩いた。そしてやっとのことで水辺までたどり着いた。  もはや這い上がる力は残ってなく、引き上げてもらったと思う。立ち上がる力が戻るまで、小石がゴロゴロした水際に、長い間うつ伏していたのを覚えている。
 後で考えると、川上でなく、岸に向かって泳げば何の問題もなかったのに、パニックになり判断力をなくしていたのだろう。
 敏隆ちゃんは、一学年上で、四人兄弟の長男だった。登下校や遊びを通し、多くの時間を共に過ごした。とても頼れる存在だった。その彼が大病をして、術後声を失ったと聞いた。恩人の様子を知ることはできないでいる。彼に幸いあれと願う。 (平成31年春)

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