スシローぺろぺろ事件について思うこと

今、ネット上を大いに騒がせている
一つの動画がある。それは、高校生の少年が
回転寿司屋の共有の醤油やレーンを回っている皿を舐め回すという内容のものだ。
初めてこの動画を見た時、自分自身も
不快感に襲われた事は言うまでもない。
しかしながら、この一連の騒動の中で私は
より強烈な不快感を別の場所で感じたのである。


私が不快感を感じた相手、
それはズバリ「民衆」である。
このように言うとなんとも仰々しく
聞こえるかもしれないが、つまるところ、
少年の個人情報を拡散しようとする多くの
Twitterユーザーである。
先に注意しておくが、
これは決して私が少年に対して可哀想だ
というような同情心を抱いたからではない。
私は彼等の、そして社会全体の醜さ、
卑劣さに不快感を感じたのである。
被害にあった回転寿司チェーンは既に少年に対する
民事、刑事上での対処を決めている。
にも関わらずこれ以上少年を断罪することに
彼らは何を求めているのだろうか?
私にはそれが、ネット上に断続的に存在する他の
数多のトレンドと同じく、
エンターテイメントの一環としてなされている
ように思えてならない。みんながやっていて
楽しそうだから自分もやる。そのような感情で
個人情報の拡散に加担している
人間がいかに多いだろう。


さらにその卑劣さを増幅させているのは、
糾弾者達が正義感と匿名性の檻の中で
守られていることである。
確かに少年が行った行為は
許し難いものであるかもしれないし、
それをネット上で晒し、血祭りにあげることは、
今後の迷惑行為の抑止力となる。しかし、
そのような正義感とは別に社会には間違いを犯した
人間を受け入れ、更生を促す一種のおおらかさも
必要なのでは無いか。既に人生の大半を賠償金の
返済に充てなければならないという
絶望的な状況に陥った17歳の少年をこれ以上
嬲り痛める行為になんの意味があるのだろう。
さらに、これらのネット上の行為が
どれだけ少年の恨みを買おうと、
彼等は報復の心配をしなくて良い。
何故なら糾弾を続ける人間は不特定多数であり、
匿名だからである。
もしも彼等が少年の報復を覚悟した上で、
自分の個人情報も公開しながら少年に大して
同様の断罪を行っていたら、
私は不快感を感じるに至らなかったであろう。


自分たちも少年と同じ社会の一員である
はずなのに、一人のどうしようもないバカが
過ちを犯した途端にそれを蔑み、
徹底的に痛めつける。
小学校の道徳の授業や、Twitter上の「教え」達が
うたうような他者に対する寛容性は
そこには一切見られない。

私が愛してやまない堺雅人主演のドラマ、
リーガルハイの中にこのような一節がある。

「本当の悪魔とは何か?
  薄汚い野良犬がドブに落ちたらよってたかって
 袋叩きにする、そんな善良な市民達さ」

今回の騒動は、まさにこの善良な市民達の醜さを
如実に反映した出来事であったと私は思う。

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