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京住日誌 24日目

【what happend today】
 京都にやって来て3週間が過ぎ、折り返し地点。サボっているつもりはないけれど、成果が出ているとは言いがたい現状はやっぱり辛い。だけどここが踏ん張りどころ。もう一度気合い?を入れ直そう。
 連日の5時代の起床。デジタル新聞更新まで少し時間がある。日によってやることは違うけれど、読まなければならない資料等は山積しているからメモを取りながら読書。何度も書くが、応仁の乱を一言でいえば「畠山家の家督争い」ということになる。この争いが時に血で血を洗う争いになるのは、一つは守護クラスの家の場合、将軍家やライバルの家が容喙するからだ。それともう一つ、現代の相続が基本分割相続であるのに対して、室町時代の相続精度は一括相続、つまりひとりがその家の全てを継ぐからでもある。そして畠山家のように管領という大きな権力を持つ家柄であれば家督の有無が大きな問題になるのは当然であろう。また足利将軍家、特に三代将軍の足利義満は他家の家督争いに乗じて、というより焚き付けて自らの権力基盤を確立していった。例えば明徳の乱(1391年〜1394年)は当時六分一殿と呼ばれ(全国66州の内、11州を支配)強勢を誇っていた山名氏の力を削ぐため義持がけしかけたと考えられている(明徳の乱平定後、山名氏の知行国は11→3になった)。その際利用したのが、山名氏の家督争いだった。さらに義満は他家同志の争いも巧みに利用した。そして畠山基国は常に義満を支えたので、厚い信任を得ている。それは役職にも反映され、1398年応永五年それまで斯波家と細川家の持ち回りであった管領に初めて畠山家が就任し、管領家の一つに名を連ねることになる。基国が畠山家の中興の祖と称される由縁でもある。

管領畠山氏家系図

 その基国が1406年(応永13)に亡くなると畠山家の家督は嫡男の満家ではなく、養子の満慶が引き継いだ。当時満家は、足利義満の逆鱗に触れ、蟄居させられていたからである。満家が義満の不興を買った理由は調べがついていないが、もしかしたら、畠山家の家督継承に波乱を起こすためだったかもしれない。しかしこの時、畠山家には家督を巡る争いは起こらなかった。なぜなら足利義満死後、畠山満慶が兄満家に家督を返還したからだ(1408年応永15)。多分珍しいことだったのだろう、世間はこの家督の禅譲を「天下の美挙」として語り継いだ。そしてこの「美挙」と評された家督の禅譲はのちに畠山家の家督を継承することになる畠山持国が10歳の時の出来事だ。物心が付く年齢であるからこの「美挙」は持国の脳裏に深く刻まれたことだろう。持国がさまざま理由があるにせよ、比較的簡単に一旦弟の持永に家督を譲り、持富にも家督を譲る約束をしたのは、父と叔父の「天下の美挙」の記憶があったからではないか?つまり弟たちはいずれ家督を兄である自分に返還してくれると高を括っていたふしがある。実際、持国が持富への家督継承を撤回し、庶子である義就(実際に血縁関係があるか怪しいらしい)へ家督を譲った時(1448年文安5)持富は特に異議を唱えなかったと言われる。それは持富にもまた「天下の美挙」の記憶があったからではないだろうか?
 しかし持富は異議を唱えることなく、亡くなったが、黙って見過ごせないのは持富の家臣団だ。家督の有無は権力、そして経済力の多寡に直結するからだ。義就の母の出自が怪しい(遊女だったとされる)こともあっても持富家臣団は持国の決定に反旗を翻す。まずは持富の嫡男政久を、続いて政長を立て、義就と家督を争うことになる。「天下の美挙」は政長や義就にとっては生まれる40年以上の前の話だから、もはや戦いをやめる抑止力には全くならない。そしてその家督争いに足利義政やライバル家(細川氏、斯波氏、山名氏)との思惑が複雑に絡み合い二転三転していき、ついには応仁の乱を引き起こす大きな要因の一つになるというのが今のところの僕の見立てである。
【Who is Hidekazu Yoshida?】
 最近のお気に入りの連載記事は朝日新聞「ことばを奏でる 吉田秀和没後10年」(全10回)だ。吉田秀和の名は聞いたことがある程度で小澤征爾と縁の深い人という印象しかなかった。恥ずかしながら?音楽評論家というのも初めて知った。当然、彼の著作は1冊も読んだことはない。
 前述した連載で担当記者(編集委員 吉田純子)は吉田秀和がやった仕事について次のように書き出す。

生まれたそばから消える音を、言葉によって永遠に刻印した。
朝日新聞「ことばを奏でる 吉田秀和没後10年」

 基本その後の連載も吉田のことばに対する称揚が続く。「ホントかよ?」と思いながら、時に引用される吉田の文章に引き込まれる。読むべき本は山積みだが、我慢できず数冊買った(電子書籍)。そして寝しなに少しずつ読んでいる。楽しみでもある。吉田のことばから音が聞こえないか確かめながら読み進めるのは至福の時間だ。
【What’s eaten tody for lunch】
 当然、腹が減っては戦はできない。朝食はしっかり食べているのにお昼になれば空腹を抱えることになる「どうしてお腹がへるのかな?」という疑問は阪田寛夫だけのものではない。そこで祇園縄手通を北上し、白川近くの名店「とり新」を決死の覚悟で通り過ぎ、新橋通りを右折して100m。目指すお店にたどり着く。

世界一の親子に認定でございます

うまい!うますぎる!これで午後も頑張れますなと思いつつ、いつもの右京中央図書館を目指すのだった。

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