見出し画像

京住日誌 18日目

 いつもは簡単な朝食を用意するけれど、土曜日の朝はちょっと優雅にカフェで朝食を食べたくなる。そこで五条から自転車で三条を目指す。少し早い時間だったので営業しているのはチェーン店系に限られている。そして注文したのはトーストとスープそしてミニサラダにコーヒーが付いたベーシック?なモノ。この店でパンは買ったことがあり、美味しかったから期待していた。
 結論から書けば×。まず、トーストがいけない。トーストはたっぷりバターを塗ってほしい。いや、正確に言えばトーストにバターを塗るのは自分でやらせてほしい。だからバターは塗らずに添えて。もちろん多めで。あと100円なら高くしても許してあげるから。それからジャムが1種類なのは淋しい。イチゴジャムにマドレーヌは必須でしょ⁈できればヌッテラがあればいうことなし。でも僕は使わないけど。使わないけどあるとないのとでは大違い。それから今の時代、このWi-Fiの弱さは致命的だ。いっそのこと、ない方がいいくらい。仕方がないから自分のポケットWi-Fiをオンにした。

 朝っぱらから注文多くてごめんあそばせ。カフェで文句を言いながら、デジタル3誌を斜め読み。そして西陣の京都考古資料館を目指す。一度来た時、ボランティアのガイドさんをお願いできるということだったので、館の展示物の解説をお願いした。ややあってボランティア氏登場。京都の生き字引のような方で、僕の質問になんでもそして丁寧に答えてくれる。よく言われることだけど、京都は新しいものと古いものが共存しているところが魅力の一つだ。荒廃を繰り返しながら今の街並みが作られた。ちょっと地面を掘り返すと柱の跡やその他が見つかる可能性が高い。鎌倉以降の遺跡からは度々食器も出でくる。ボランティア氏によれば使わなくなったり、割れたり欠けたりしたものをそのまま打ち捨てたモノだという。鎌倉時代からゴミ処理は頭の痛い問題だったんですな。そして鎌倉時代には都市化された町だった京都は生産地ではなく消費地だった。基本常に建設ラッシュであるからその材料を他国から入れなければならない。輸送ルートとして鴨川が使えれば、淀川を経由して船で大阪(河内国)から京都へ大量の製品その他を直接運び込める。ところが鴨川は水量はあるものの、浅瀬で千石船は座礁してしまうという。そこで伏見で物資は一旦陸揚げされ、陸路で運ばれた。そのための一種の産業道路が「鳥羽作道(とばのつくりみち)」で、伏見から平安京の入り口である羅城門まで通じていた。そして京を南北に走る朱雀大路を通って上京へと物資が運び込まれた。その後豊臣秀吉の時代になって京都の再開発が行われる。そのために豪商門倉了が鴨川沿いに水路を開き高瀬川と命名した。先般そこへ行ったことはこの日誌でもアップした。その時も思ったが高瀬川も浅瀬だ。鴨川同様やっぱり座礁してしまうのでないか?という僕の質問にボランティア氏は一つの図を示しながら答える。

そういうことなの⁉︎

「高瀬舟は艪で漕いだんじゃないんです。船に縄をつけて岸から人が引っ張ったんです。つまり人力です」知らなかった。やっぱり専門家?に話を聞くと理解が早く深まる。知識が線になり、ある場合には立体的になりそして理解が深まるものだ。ただ、僕は大学時代日本文学を齧った男だ。高瀬舟の真相を聞くと森鴎外大先生の「高瀬舟」が気になる。高瀬舟を引っ張る男たちの描写って確かなかったよな?と思いホテルに帰った後調べてみた。もちろん?船を引っ張る男たちは登場しない。それどころか、船頭の描写もなく、同心羽田庄兵衛と罪人喜助との会話が淡々と続く。そして最後は次のように締め括られる。 

次第に更けていく朧夜に沈黙の人二人を載せた高瀬舟は黒い水の面をすべって行った。
高瀬舟

いやはや少なくとも高瀬川では二人を載せた高瀬舟は多くの人夫に引っ張られていたから、もしかしたら人夫たちが歌う船歌?で会話どころの騒ぎではなかったかもしれない。

 気分良く京都考古資料館を後にして大報恩寺(千本釈迦堂)を目指し、西へ。

本堂は国宝

 応仁の乱に限らず、そして戦乱だけに限らず、京都の寺は火事で燃えている可能性が非常に高い。そのため意外に古い建物が残っていないのた。そんな中で大報恩寺本堂は鎌倉時代承久三年(1221年)創建で京洛でもっとも古い木造寺院だという。まずは600円を払って霊宝館へ。ご本尊の「釈迦如来像」は秘仏だから観れなかったけれど、快慶作の「十代弟子像」や定慶作の「六観音像」が並ぶ。どれも力作で保存状態も良く、圧倒された。特に快慶の「十代弟子像」は写実的で迫力満点。腕の血管を彫り込む像もあり、快慶が何より写実性を重視したことがわかる。その後は、本堂に上がり、閉じられたご本尊に参った。本堂の柱に刀傷がいくつかあり、焼かれなかったけれどここでも戦闘は行われたのだろう。それでも本堂が焼けなかったからこそ素晴らしい仏像が焼けずに残ったのだが。
 そんなこんなを妄想しながら天気の良い日で本堂から山道を眺めると心地よい風も吹き、とっても気持ちがよかった。

春は桜が乱れ咲くんでしょうな

 ここを訪れたのは応仁の乱を前にして畠山義就がここに陣を張ったからだ。どんなどころか確認しておきたかった。ここに陣を張ったのはもちろん山名宗全の手引きである。「応仁記」はその時の義就軍を5,000と記述するが一般に軍記ものは人数について大げさ記述する傾向がある。しかしながらある程度の軍勢であったのは間違いないだろう。

赤マルが東軍、青マルが西軍

 大報恩寺は当時本堂の他大伽藍が立ち並ぶ地域だったようだが、それにしてもむさ苦しい兵士で境内は溢れ、僧侶たちは眉を顰めていただろう。いや、そんな暇はなく、兵士たちの食事の用意で右往左往していただろう。下世話な話だがトイレの問題もある。決戦は間近だから、武器の準備や手入れも怠れなかっただろう。武器の調整その他をする武器職人たちも控えていたかもしれないと想像できる。いずれにせよ周囲は有象無象で騒然としていたはずだ。そもそも義就がここに陣を張れたのは前述したように山名宗全のおかげだ。山名宗全は周囲一帯を支配下に置いており、大報恩寺のパトロンでもあった。そしてこの戦いには莫大な戦費が掛かっている。ちなみに室町時代は貨幣経済が拡大した時代でもあった。ただ基本独自の通貨は流通しておらず、中国の貨幣(明銭、北宋銭)が使われた。面白いのは日明貿易において、日本の輸出品の一つは銅だったが、明は日本からの輸入品である銅で明銭を作ったことだ。そして明から明銭を輸入し、その明銭が特に初期室町幕府の財政を支えた。この時も山名宗全によって多額の明銭が用意されていただろう。もしかしたら兵士たちに前払いとして明銭が支払払われていたかもしれない。当時部隊の主力は傭兵だった。懐中を暖かくした彼らの士気は高かったに違いない。
 ところで畠山義就軍はどのルートを通って京都に入場したのだろう?山名宗全の配下の者が案内したのは間違いない。
 鎌倉時代後半から「京都七口」と呼ばれる関所があった。時代によって場所が変わり、必ずしも7箇所ではないが、普通名詞として「京都七口」という名称が用いられる。畠山義就軍は山名宗全の上洛要請に応じて河内国若江城(今の東大阪市若江町)を出発した。京都まで直線距離で約50キロ。安全に入洛するなら山名宗全の支配地域である長坂口だろう。そこからは大報恩寺も近い。しかしこの上洛は軍事パレードの要素もある。京都の人々に、そして何より足利義政に畠山義就軍の武威を見せつけなければならない。そのためにも今の「京都中央市場第一市場」近くの「丹波口」から上洛したのではないだろうか?そしてそのまま市内を北上すればデモンストレーションとしては効果抜群だ。当然「畠山義就軍上洛」の報は狙い通りすぐに義政へと知らされる。それを聞いた義政は最初激怒したそうだ。なぜなら将軍無許可の上洛だからだ。しかしそこは策士山名宗全の根回しは抜かりがない。義政の妻である富子へは事前に知らされ内諾を得ていた。まずは激怒する義政を妻富子が宥め、今度は宗全が面会して畠山義就の家督復帰を請願し、承諾を得る。この豹変ぶりは足利義政には良くあることだが、妻富子も味方につけた山名宗全、畠山義就軍有利と判断したのだろう。このように山名宗全の策略はここまでは完璧だった。

 その後は再び自転車を漕いで妙心寺を目指す。臨済宗のお寺で妙心寺派の大本山である。ここも応仁の乱では戦場となり残念ながら大伽藍は焼失した。寺内の退蔵院のお庭が公開されているので600円を払って入場。狩野派二代目元信作庭で、眼前に美しいお庭と池が拡がる。600円の価値はありますな。

退蔵院のお庭
鯉も泳いでます

その後はいつもの右京区中央図書館へ。閉館まで今日訪れた大報恩寺と妙心寺について調べた。そして閉館のチャイムと共に烏丸五条のホテルへと帰った。
 今日はなかなか充実した1日だったので気になって気になってしょうがなかったイタリアンバルへ。素晴らしいワインとお料理でヘロヘロになり、いつのまにか意識を失った。

イベリコ豚🐷
世界一美味しいパンナコッタをデザートワインと共に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?