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連載「フィービーとペガサスの泉」②

第Ⅰ部  ホテルヴィクトリアと「人形の間」

(前回のあらすじ)
「ホテルヴィクトリア」の片隅に存在する「人形の間」。
不思議な雰囲気の漂うこの小さな部屋には、誰も知らない秘密が隠されているという。

ある日の朝、そのホテルヴィクトリアの大きなキッチンで、シェフたちに混じって、一人の女性がかわいらしい朝食の支度をしていた。誰一人、その朝食に気を留める者はいなかったが、よく見ると、小さなパンケーキやベーコンが、人知れず空中から現れている。ままごとに使うような朝食のプレートを手にした女性は、やがてひっそりと「人形の間」の中へと姿を消していった。

2 フィービー、わが家を失う


「だってパパ! 私たち、これから……」
フィービーの顔がさっと青ざめた。

ーーこれから、どこに行けばいいの?

口をついて出かけたその言葉が、声にはならず消えていった。フィービーは黙ったまま、立ち尽くしていた。

ーーパパが、泣いてる……。

「すまない、フィービー」
げっそりとした頬が、どうしようもなく痛々しかった。首元のネクタイが力なく緩んでいる。昨日と同じシャツ。同じネクタイ。いつもは形よく整えられている前髪は乱れ、両目が赤く充血していた。仕立ての良いスーツに包まれた背筋だけが、かろうじて凛としている。フィービーの父、ジョン・ロイドが、ここしばらく眠っていないのは明らかだった。事態はそれほど深刻なのだ。

「明日にはここを明け渡さなければならない。他に道がないかと、この数週間あらゆる手を尽くしたが……。どうにもならなかった」

こんなに生気のない言葉を、ジョンの口から聞くのは、フィービーには初めてのことだった。

 ーーどんな時でも優しくて力強いはずのパパ。そのパパがこのホテルを、私たちの大切な家を、誰かに渡そうとしている……。

フィービーは「人形の間」のことを思い出した。ジョンに呼び止められる少し前、フィービーはいつものように身支度を整えていたところだった。

金ボタンのついたえんじ色のブレザーにプリーツ入りのスカート。
しわ一つない真っ白なシャツとキャメルのベスト。
そして、「見習いコンシェルジュ  フィービー・ロイド」と書かれた、胸のネームプレート。

自由気ままにはねる長いくせっ毛を何とか落ち着かせ、7歳の誕生日に特別に作ってもらったこの制服に着替えると、フィービーは毎日いそいそと「お仕事」に取りかかる。紅茶やスコーンをのせた大きな銀のトレーを手に、時には危なっかしい足取りで「人形の間」にたどり着くと、あわてんぼうの自分をなるべく落ち着かせ、慎重な手つきでドールハウスに小さな食器を並べ始める。

ホテルの中でもとりわけ人気のある「人形の間」のドールハウスには、姿なき人形たちのために、朝食、午後のお茶、夕食が一日も欠かさず出され続けてきた。ミニチュアながら食事はどれも本物で、フィービーが用意する紅茶や焼き菓子も、ホテルヴィクトリアの名高いアフタヌーンティーとまったく同じものだ。その本格的なところが、多くの宿泊客や地元の人々の目にはとても魅力的に映るらしく、「人形の間」の訪問客はいつも後を絶たなかった。

「人形の間」のドールハウス


フィービーにはそれが誇らしくてしょうがなかった。今日だって学校が終わるやいなや、それこそ野ウサギのように跳んで帰ってきたのだ。でも、今ではそれが遠い昔のことのように思える。

ーーこれは本当なの? それとも、わるい夢?

フィービーは混乱したまま、自分にそう問いかけていた。

ある日の「人形の間」の
アフタヌーンティー


「すまない」
ジョンはかすれた声で繰り返した。憔悴しきったその声で、フィービーは我に返った。

ーー本当なんだ。パパの会社が倒産したっていうのは……。

まだあどけない顔が次第に青ざめていく。フィービーはたまらずにしゃくりあげた。

「ママの部屋にも入れなくなっちゃうの? バラ園は? 『人形の間』は? 学校が終わったら、私、どこに帰ればいいの」

何とかフィービーを落ち着かせようと、ジョンは小さな肩に手を置いた。

「ここはそのまま続いていくよ。昨日になってやっと、ホテルを今の状態のままで買い取りたい、と言う人が出てきたんだ。この最上階も、しばらくはそのままでいいと。ただ……、フィービー。君にはイギリスに行ってほしい。向こうにはクリスティがいる。今は、せめて2人だけでも一緒にいてほしいんだ」

フィービーの体が凍りついた。

ーーイギリス! ここを離れてそんな遠くに……。いくらクリスティがいるからって、そんなの……。

「いやだ!」
大声で叫んだフィービーは、ジョンの手を払いのけた。体が小刻みに震えている。

ーーママが大切にしていたこの家を出ていくなんて。「人形の間」を手放すなんて。そんなこと……。

自分でも訳が分からないまま、気がつくとフィービーは広間を飛び出していた。

ホテルビクトリアの
中庭


※画像はすべて、Microsoft BingのチャットAI機能で生成しています。



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