見出し画像

連載「フィービーとペガサスの泉」③

第Ⅰ部  ホテルヴィクトリアと「人形の間」

3 ホテルヴィクトリアの若きダ・ヴィンチ

 インナーハーバーと呼ばれる内海には、今日もたくさんの船や水上飛行機が行き来していた。港に面したメインストリートも多くの人々で賑わっている。船を降りたクリスティは、美しい港街を見守るようにそびえ建つホテルヴィクトリアの前に立っていた。街には春が訪れていた。道沿いに植えられた桜やプラムの木は、淡い白や桃色の花を枝いっぱいに咲かせ、街の夜を明るく照らす無数の街灯にも、フラワーバスケットが架けられ始めていた。パンジーやチューリップが満開のホテルの前庭では、子ども連れの家族や手を繋いだ上品な老夫婦が、思い思いに夕暮れのひと時を楽しんでいる。

 おかえり。

どこからともなく声が聞こえてくるようだった。クリスティは最上階を見上げた。その前を何気なく通り過ぎた人々が、ふと足を止めて振り返った。ただ立っているだけのクリスティに、思わず見入ってしまっている。誰もがその端正な横顔から目が離せないようだ。

「クリスティ様!」
驚いたベルボーイの声に、フロントの従業員たちが一斉に顔を上げた。ロイド家が倒産したと聞いて内心は不安に駆られながらも、てきぱきと仕事をこなしていたみんなの表情が、次第に明るくなり始めた。
「クリスティ様が?」「帰っていらした?」
もう五十年以上もこのホテルのコンシェルジュとして働いてきたロベルトが、珍しく慌てた様子でエントランスに走り寄った。
「クリスティ様。よくお戻りで」
「ただいま」
いつもと変わらない落ち着いた様子で、クリスティは浅く微笑んだ。
「フィービーは?」
「それがホテルのどこを探しても見つからなくて。だんな様が事情を話した途端、広間を飛び出してしまったということで。さっきから手分けをして探しているところでした」
「そう……」
物憂げに首を傾げたクリスティは、多分あそこだと思うわ、と呟くと、最上階に向かって歩き出した。

ホテルヴィクトリアのある街の一角


 クリスティは天才だった。その才能を目にした人はみな、最初は決まって言葉を失ってしまう。後に「現代の若きダ・ヴィンチ」と呼ばれる彼女の桁外れな才能を理解するには、両親のジョンとアリスでさえ少しばかり時間が必要だった。

 最初の事件はクリスティが4歳の時に起きた。ある日、たまたま「人形の間」に立ち寄った一人の初老の男性が、部屋の隅で本を読んでいるクリスティを見るなり、ぴたりと動きを止めた。彼の目は、その小さな女の子が手にしている古く分厚い本にくぎ付けになっていた。男性はクリスティの前に立つなり、何の前置きもなく口を開いた。
「その本に書いてあることが、本当に分かるのかい?」
男性の表情はいたって真剣で、とても4歳の女の子を相手に話しているようには見えなかった。

 ゆっくりと顔を上げたクリスティは男性を一瞥すると、そのまま横を向いて窓辺に飾られていた花瓶の向日葵を指さした。
「一番小さいひまわりは、時計回りに並んでいる種の線が21本、反対回りに並んでいる種の線が34本。中くらいのひまわりは時計回りが34本、その反対が55本。この本に書いてある通りだと、大きいひまわりは時計回りが55本、反時計回りが89本。さっき確かめてみたらその通りだった。ひまわりの種の線の数は、必ずフィボナッチ数列だから」

男性の目が、何かを確かめるようにきらりと光った。
「たしかにそうだ。その本はレオナルド・フィボナッチの『算盤の書』。手にしているのは古いドイツ語版のようだが、君にはそれが読めるらしい」
クリスティはこっくりと頷いた。
「名前は」
「クリスティ・ロイド」
食い入るようにクリスティを見ていた男性の表情が、次第に輝き始めた。
「君はどうも『アテネの学堂』(※1)に招かれているようだ。読書の邪魔をしてすまなかった。いずれまた必ず会おう」
クリスティはもう一度首を縦に振った。そして再び熱心に本を読み始めた。

 ――あなたのお嬢さんは、世界でも稀にみる才能の持ち主だ。決してその天賦の才を摘み取ってはならない。早期に適切な環境を与えるように。私で力になれることがあれば、何でもお手伝いしたい……。

 そう伝言を残して去っていった男性が、フィールズ賞(※2)を受賞したこともある高名な数学者だと聞いて、ジョンは驚きを隠せなかった。

ある日の「人形の間」

 しかしそれは、クリスティにまつわる伝説のほんの始まりにしか過ぎなかった。アリスのヴァイオリンに興味を持ったクリスティにレッスンを受けさせてみると、信じられない速さで上達し、小学校に入学する前にはバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタを完璧に演奏できるほどになっていた。言葉についても同じだった。世界各国のニュースを見たり、「人形の間」の本を好き勝手に読んでいるうちに、いつの間に数か国語が理解出来るようになっていたのだ。

 小学校に入学したクリスティがまったく学校に馴染めず、日に日にやせ細っていくのを目の当たりにして、ロイド夫妻はかつて初老の数学者が残していった言葉を思い出した。
「決して芽を摘まず、適切な環境を与えるように」

 もしかしたら、この子は私たちが考えているよりも遥かに特別な何かをもっているのかもしれない。

そう考えたジョンは、世界で活躍する学者や芸術家をホテルヴィクトリアに招き、クリスティに彼らとふれあう機会を与えてみた。すると人々はみな、一様にこの小さな天才に驚愕し、その才能を伸ばしていくための助力を惜しんで止まなかった。

 こうしてホテルヴィクトリアが小さなクリスティの知識の泉となった。今年19歳となったクリスティの万能の才は、言語学、歴史学、芸術、数学、量子物理学など、あらゆる分野で見事に開花している。
 あの数学者に招かれて数年前からイギリスのオックスフォード大学に通い始めていたクリスティは、ジョンが倒産したことを聞いて、1年ぶりに急遽ホテルヴィクトリアに戻ってきたのだった。

ホテルヴィクトリアのロビー

注釈
※1 アテネの学堂…古代ギリシャのアテネにあった哲学の学校のこと。プラトンが創設し、アリストテレスやスペウシッポスなどの著名な哲学者が教えたり学んだりした。西洋哲学の発祥地とも言われている。画家ラファエロが描いたフレスコ画でも有名

※2 フィールズ賞…若い数学者のすぐれた業績を顕彰し、その後の研究を励ますことを目的に、1936年に作られた賞のこと。数学に関する賞では最高の権威を有すると言われている。

※画像はすべてMicrosoft BingのチャットAI機能で生成しています。

サポートして頂いたお気持ちは、みなさんへのサポートとして還元させて頂きます。お互いに応援しあえるnoteにしてけたら嬉しいです!