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連載「フィービーとペガサスの泉」⑥

第Ⅰ部 ホテルヴィクトリアと「人形の間」

6 真夜中の「お客様」

 「ねえ、パパ。ホテルのオーナーが別の人に変わっても、『人形の間』のお世話をする人はちゃんといる?」

 3人は最上階の広間でこれからのことを話し合っていた。フィービーにそう尋ねられて、ジョンは一瞬言葉をつまらせた。しかしすぐに、本当のことを言った方がいいだろう、と思い直した。

「いや。実のところ、先方の唯一の条件は、あの『人形の間』だけは取り払うというものなんだ。なぜそうしたいのか、理由までは聞いていないんだが……」
ジョンの言葉に、フィービーはさすがにショックを隠しきれなかった。
「そんな……。新しいオーナーの人は『人形の間』が気に入らなかったの? じゃあ、ドールハウスはどうなるの?」

ジョンはため息をついた。
「それは……。実はまだ決めかねているんだ。アリスが殊のほか大切にしていたものだし、もちろん処分なんてことはしないつもりだが」
そう言われてとりあえず落ち着きはしたものの、フィービーは悲しくてたまらなかった。

 朝の7時、午後の3時、夜の7時。
 それは、ドールハウスに本物の食事やお茶が用意される時間だった。

 指先にのる程の小さなスコーンやケーキ。
 焼き立てのパンにローストビーフ。

 国内外で評判の高いダイニングヴィクトリアで出されるメニューとまったく同じものを、アリスは毎日嬉しそうにドールハウスに飾り続けた。一見ミニチュアの作り物にしか見えないドールハウスの食事が、よく見てみると本物だと気づいた人々は、決まって幸せな歓声を上げた。いかにも居心地がよさそうで、思わず「こんな家に住んでみたい」と思ってしまう「人形の間」のドールハウスに、本物のグレービーソースがかかったローストビーフやマッシュポテトが並んでいるだけで、人々はなぜか心を温かく揺さぶられるようだった。

 アリスが亡くなってからは、メイドのモニカがそのかわいらしい伝統を引き継いだ。そしてつい最近からは、少しばかり大きくなったフィービーも、自らそこに加わるようになっていたのだ。

 ただ、暖炉の上の壁をくりぬいて設置されたドールハウスは、特別な作りの分、移動が困難な代物でもあった。ジョンは眉間にしわを寄せた。

 ――目の前には、ドールハウス以上に厄介な難題が、手つかずのままたくさん残っている。そして、今の自分に与えられた選択肢は数えるほどしかない……。

ある日のドールハウスの夕食。
この夜のメインは、ダイニングヴィクトリアでも人気の
特製マッシュポテトを添えたローストビーフ。


 「失礼します」

 いつの間にか広間に来ていたモニカが、突然2人の会話を遮った。こわばった表情は明らかにいつもと様子が違う。家族の会話を無理に遮るようなことも、普段のモニカなら絶対にないことだった。
 しばらく目を伏せていたモニカは、やがて決心したように口を開いた。

「だんな様。お伝えしなければならないことがあります。今、皆様がお話しになっている『人形の間』とドールハウスについて」
「『人形の間』とドールハウスについて?」
「はい。ホテルヴィクトリアがほかの方の手に渡る前に、どうしてもだんな様とクリスティ様、そしてフィービー様にお会いしたいとおっしゃっている方がいます」

 3人は顔を見合わせた。

「その方に、午前2時に皆様を『人形の間』でお待ちしていると伝えてほしいと、言づかってまいりました」
「午前2時って、そんな遅くに一体どこの誰が私たちに会いたいっていうんだい?」

ジョンはますます困惑した顔になった。フィービーは不思議な胸騒ぎに駆られてモニカのそばに駆け寄った。
「ねえ、モニカ。その人って、私にも会いたいって言ってるの? パパやクリスティだけじゃなくて、私にも?」
「はい。フィービー様にも、絶対にいらしてほしい、と」

その目は真剣だった。気をつかって言っているようには見えない。本当にフィービーにも来てほしいのだ。

「ねえ、パパ。その人に会おう! もしかしたら『人形の間』を守る何かいいアイディアをくれるかもしれないじゃない?」
「うん、まあ。会うことはかまわないんだが……」

それまで黙って話を聞いていたクリスティが口を開いた。
「パパ、会ってみましょう、その人に。フィービーが言うように、この状況を変える何かいいアイディアが浮かぶかもしれないわ。モニカ。3人で『人形の間』に伺うと、その方に伝えて」

頷いたモニカは、足早に立ち去っていった。フィービーの胸がにわかに高鳴り始めた。

  一体どんな人が、そんな真夜中に私たちを待っているのかしら?

   ☆

 時計の針は1時45分を指していた。クリスティの膝を枕にして、フィービーは長椅子で深く眠り込んでいた。この長椅子は、最上階の広間の中でも特にフィービーのお気に入りの場所だった。ここなら寝転んでいても、大きな出窓の向こうに広がるインナーハーバーが見渡せるからだ。

 楽しい夢でも見ているのか、幼い寝顔は微かに緩んでいた。クリスティはそっとフィービーを揺り起こした。

「フィービー。もうすぐ2時よ。フィービー」
やわらかで小さな瞼が、何かの重しを持ち上げるようにうっすらと開いていく。
「モニカと約束した2時まで、あと少しよ」

クリスティが言ったことが分からず、最初はぼんやりとしていたフィービーは、突然がばっと起き上がった。そしてだるまのように長椅子の上にひざまずくと、両手で顔をンパンと叩いた。
「そうだった。みんなで『人形の間』に行くんだった!」
ほとんど転げ落ちるように立ち上がったフィービーは、どたどたと騒がしく走っていった。

 入れ違い広間に戻ってきたジョンが、おやっ?という表情を浮かべた。
「フィービーは?」
「たった今飛び起きて、多分顔を洗っているんだわ」
その声にかぶさるように、真夜中の最上階に大きな声が響き渡った。
「ちゃんとトイレもした!」
クリスティがくすっと笑ってジョンを見上げた。
「私は何も聞いてないぞ」
ジョンも笑いながらフィービーの頭を、ぽんと叩いた。
「さあ、行こうか」

最上階の広間の夜


 連れ立ってエレベーターに乗り込んだ3人は、しんとしたホテルのロビーに降り立った。それは、フィービーが普段目にしているホテルの様子とは全然違って見えた。まばらな灯りに照らされたエントランスホールには珍しく人影がなく、フロントにも誰の姿もなかった。ジョンは首を傾げた。ホテルのフロントには24時間、常に誰かがいることになっているからだ。
 
 気になりはしたものの、余計なことを言ってフィービーを不安にさせたくはなかった。ジョンは黙ったままロビーを通り過ぎた。無言で歩き続けた3人は、程なくして「人形の間」の前に辿り着いた。

 部屋の扉は固く閉じられていた。
 ごくん、と唾を飲み込んだ音が、びっくりするほど大きく響いた。何だか急に怖くなったフィービーは、つないでいたクリスティの手を無意識に強く握りしめた。
「大丈夫。みんな一緒よ」
フィービーはこくんと頷いた。クリスティは軽く息を整えると、改まった様子でドアをノックした。コンコン、と固く乾いた音が辺りに響き、鈍い音とともに扉が開いた。

「お待ちでございます」
モニカは3人を丁寧に招き入れた。部屋の照明は落とされ、燭台にはめずらしく火が灯されていた。ジョンは部屋の四方を見回した。中には誰もいない。

「モニカ、お客様はどこだい?」
返事をする代わりに、モニカはドールハウスをじっと見ていた。蝋燭の炎の揺らめきに包まれたドールハウスは、まるで宙に浮かんでいるようだ。部屋中の空気が、なぜか次第に張りつめていく。

 やがてどこか奥まった所から、コツ、コツという小さな音が聞こえてきた。微かな衣擦れのような音もする。それはとても小さく、耳をそばだてなければ、すぐにかき消されてしまいそうな音だった。
「足音?」
誰もがそう思った瞬間、不意にドールハウスの居間の扉がゆっくりと開き出した。フィービーは目を見開いた。扉の向こうから姿を現したのは、美しいドレスに身を包んだ小さな女の人だったからだ。

 茫然としている3人の前で、どこかの国のお姫様のように美しい、でもどう見ても人形としか思えないその女の人は、優雅な微笑みを浮かべて声を出した。

 「初めまして。ヴェリーディア公国の王女、ヴィクトリアです」


真夜中のドールハウス

※画像はすべてMicrosoft BingのチャットAI機能で生成しています。

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