聖女(デーモン)が呼ぶ声 2

 大衡幸都は(おおひら ゆきと)は美神(ヴィーナス)を抱いている。

 恵麻の肉体は、美の神の化身と称しても大げさではない。
 大きく張りがある乳房、なだらかなカーブを描くしまった腰、一転して豊饒を思わせる臀部、全てが薫り高く艶があり、彼女の肢体はまさに美神の写し身その物だった。 
 恵麻が吐息が弾み、その香りに幸都はくらくする。
 彼は愛する女の身体に腕を回し、このまま同化を望むかのように、力を込めた。
 閃光のような一瞬。
 幸都は獣のように呼吸しながら、恵麻の体の中に出し尽くす。
 二人は子どもを望んでいるので、躊躇する必要はなかった。、
 はあはあ、とぬるい疲労感に浸り、幸都は恵麻の傍らに寝ころんだ。
 だが、彼の妻・大衡恵麻(おおひら えま)は違った。
 彼女はまだ疲れ切っていないようで、「えいっ」と幸都の上に乗った。

「うふふふ」と笑う恵麻を、改めて下から見上げる。

 ──俺なんかがよく落としたものだ……。

 二人は二年間の交際を経て、今年結婚していた。

 恵麻……当時は織田恵麻(おだ えま)と初めて出会ったのは、まだ彼女が大学生の頃だった。
 その出会いを、幸都ははっきり記憶している。
 名古屋大学で起きた殺人事件の参考人……それが織田恵麻だった。
 まだ所轄署の刑事だった幸都は、警視庁の『特務処理』係に配属される未来を知らず、県警の刑事の運転手のような役割で、名古屋大学を訪れた。
 無人の椅子が並ぶ講義室で、幸都は初めて恵麻を見た。
 唖然と立ち尽くしたのを覚えている。

 恵麻は美しかった。
 緩くウェーブのかかるたっぷりとした亜麻色の髪に、はっきりとした目と高い鼻、艶めく唇。
 アジア系でありながら、西洋絵画の聖母のような印象の女性だった。
 幸都は一目で彼女の虜になったが、その時恵麻は殺人事件の『参考人』の一人だった。
 すぐに真犯人は逮捕され、憂いを帯びた麗人は、瑕疵のない女子大生に戻った。
 二度と会えなくなる気配を感じた幸都は、事件捜査が終了するとすぐ、帰り支度をする恵麻に声をかけた。
 一生分の勇気を込めた食事への誘いに、彼女はまさに光のような笑みを浮かべた。
 交際の始まりだ。
 幸都は半身を起こして恵麻を抱きしめた。首筋に唇を這わせ、彼女の呼吸を深くさせる。 恵麻は絶世の美女だ。当然、キャンパスの男達の視線を一心に受けていた。
 だが、彼女は特定の恋人はおらず、幸都はライバル達を尻目にどんどん彼女との仲を進めていった。  
 最初に結ばれた時、恵麻の完璧な肉体を享受しながら彼は決意した。
 ──恵麻は俺だけのものだ。
 幸都自身、これ程まで他に執着するのは初めてだった。
 彼はあるデートの終わり、彼女の輝く瞳を見つめた……今でもどうやって己を奮い立たせたのか覚えていない。

「俺といつまでも一緒にいて下さい」

 恵麻は幸都の言葉にうっとりとした幸福そうな表情になり、彼の意志を受け入れた。
 彼女が大学を卒業したら結婚する……もう幸都の人生の航路は決まっていた。
 故に二人は卒業式の数日後に控えめな式を挙げた。
 大がかりにならなかったのは、同時に幸都の身の周りに、大きな異変が起きていたからだ。
 恵麻は肉体はまさに美神の似姿であり、完璧だ。なのに彼女は最近、ダンスフィットネスやホットヨガに興味を持ち、ネットで調べ始めている。
『美』に対する女の執着は、幸都の理解できる範囲を超えていた。
 だが若い夫婦の意志は一致しており、毎日愛を確かめ合っていた。
 だが幸福な甘い時間が遮られる。
 枕元の置いてあるスマートファンが振動し出したのだ。

「……こんな時に」

 幸都の眉がしかめられるが、恵麻は既に刑事の妻の顔になっており、素早くベッドから降りた。

「お仕事、なんでしょ?」
「ああ」うんざりとした体で、緊急時の報だけを知らせる仕事用のスマホを手にした。

『殺しだ』

 伊伏瀧矢(いぶし たきや)が一言で状況を説明した。
『新婚さんには、この時間悪いがな』

 見透かしたように付け加えられた一言に反感を持ちながら、幸都は答える。
「すぐに行く……場所は?」
『JR南千住駅近くのアパートだ』
 幸都が住所をメモしていると、恵麻が清潔なYシャツと青黒いスーツを手にしていた。「……すまない」
 すっかり平静な様子の妻に頭を下げると、恵麻は聖母のように微笑む。
「仕方ないわ、お仕事なんですもの」
 幸都はスーツを着ると、自室の机に隠してある鍵を取り出し、部屋の隅に巧妙にカモフラージュしてある金庫を開ける。
 彼の『仕事』に不可欠なSIG P226……拳銃が二丁、不吉な色を煌めかせて待っていた。

 ──真っ当な刑事じゃないな……。

 幸都は二丁とも取り出し、ショルダーホルスターに一つ、腰のベルトの下げているホルスターにもう一つを納める。ついで予備マガジンも装備した。
 振り返ると不安そうな妻がいた。
「大丈夫だよ、恵麻」 
 幸都は薄い寝間着に身を包んだ恵麻を力一杯抱きしめる。
「すぐに帰ってくる……君を抱きしめるために」
 恵麻の瞳が妖しく輝き、「うふふふ」と彼女は唇に手を当て笑った。
 大衡幸都はこうして愛に溢れる家庭から、死に溢れる仕事場へと向かった。

 午前一時を過ぎても、東京は眠らない。
 24時間営業を謳うコンビニや、深い時間に関わらず開いている店が駅周辺に密集しているからだ。
 さらに今は警察関係者が、アパートを照らすサーチライトを中心にして、自らも手にLEDライトを持って動き回っていた。
 愛車を近くに停めた幸都は、こんな時間なのに集まって来ている野次馬達の中を通り、黄色い規制テープを持ち上げて『現場』に入った。
 スポットライトのように強烈なパトカーのフロントライトの中に、幸都の同僚達は集まっていた。
 伊伏瀧矢は彼より一つ年下で、ギリシャ彫刻のように整った容姿を持つ刑事だ。その美貌は個性と言うより武器に近く、彼はそれを使い、何故か『特務処理』係に降りてこない警察内の重要情報を、婦警達から仕入れてくる。

 加東正(かとう ただし)は幸都よりも一つ年上で、細い目と大きな口が印象的な刑事だ。加東は『特務処理』係で一番年上の二七歳だが、何故か一番言動が子供じみていた。

「お楽しみ中、ご苦労さーん」
 加東は幸都を見つけると早速、新婚の彼を揶揄するが、幸都は無視をする。
「……状況は?」
「今から二時間前、荒川区のコーポ南千住の二〇二号室の杉浦亮一(すぎうら りょういち)から通報があった。隣室の二〇一号室で人が死んでいるようだ、と……」
 伊伏が淡々と延べた後を、加東が強引に継ぐ。
「でー、お巡りさんがー駆けつけて遺体をはっけーん、戸田亜美、東京聖栄大学二年、栄養士でも目指していたのかなー……でー、二〇歳。新宿でカフェ店員のバイトちゅー」
「随分調べが早いな」
 加東が人の悪い笑みを閃かせる。
「お隣のー杉浦君から、きーたー。アパートの薄い壁だしー、聞き耳なら立て放題さー」
「……第一発見者なんだろ?」
「杉浦じゃない」
 幸都の疑うような問いを、伊伏が切り捨てる。
「現場を見れば分かる」
 伊伏の顔は闇の中でも白かった。幸都は彼らがもう現場を一瞥しているのだと気づき、暗澹たる気持ちになる。
 ──死体は見たくない……食欲がなくなる。
「酒がー飲みたいぜー」加藤も同様らしく、笑顔が翳った。
「泥酔してー忘れてー」
「そんな訳にもいかないだろ?」幸都は苦笑して続ける。
「改めて俺達の目で確認しよう」
「『特務処理』係が必要かどうか、か? まあいいさ、意見は多い方がいいからな」
 幸都に伊伏が頷き、彼はフロントライトの光から外れアパートへと歩き出した。当然後を追う。

 ──ああ、なるほど。

『現場を見れば分かる』……先程の伊伏の台詞だが、確かに一目で幸都もそれが尋常ではないと思った。
 血まみれだ。アパートのスチールの扉も、廊下のコンクリートの床も、大量の血で汚れ、そこから足跡が外へと続いていた。

 ──これなら、一目見ただけで迷わず通報する訳だな。

「……既に杉浦の靴は調べた。少なくともサイズが違う、さらにこれだけの出血だ、浴びたら衣服や体に血液が付着する……杉浦にはなかった。衣服は綺麗な物だし、杉浦の部屋もこの部屋も、ユニットバス、台所からのルミノール反応は無し、つまり洗い流してはいない」
 第一発見者であり通報者が、容疑者から外された理由だ。
「最も、あいつには絶対にムリだ」
 伊伏が苦い顔をすると、加東が大げさに肩をすくめる。
「杉浦君さー、警察が来たら倒れちゃってさー、今は近くのー病院……晩酌の酒とつまみをーすっかり吐いていたそーだ」

 ──ご愁傷様だよ。 

 幸都は通報者に同情しながら被害者の戸田亜美の部屋へと入る。玄関の所々にも血だまりが出来ていた。
「臨場は終わっている。俺達が最後に結論を下すのを待っているらしい」
 伊伏の言う『臨場』とは機動捜査隊や鑑識が行う殺人事件の初動捜査の事だ。一帯を封鎖し、物言わぬ姿となった被害者の身体の周辺を徹底的に調べ尽くす。
 本来、警視庁本庁勤務の刑事は死体のある殺人現場には駆けつけない。鑑識による臨場から上がった情報を精査していくのが、捜査一課の刑事だ。
 だが『特務処理』係は違う。彼らはまず『判断』しなければならない。

 つまり……『凶人』関係の事件なのか。

 戸田亜美の遺体を前にした幸都は、すぐに内心判断した。

 ──『凶人』だ。

「はいー、二人とも、合掌ー」
 未だ全裸の戸田亜美を前に、加東が神妙な声で言った。
 伊伏が手を合わせて、幸都も掌を擦り、被害者の冥福を祈る為に目をつむる。

「さて……始めるか」台詞と裏腹に、もう終わりかのような疲れ切った声で、伊伏が宣言する。

 戸田亜美の致命傷になったのは首だろう。半分噛みちぎられており、飛び散った血がベッドの下の絨毯まで届いている。
 後は胸部、乳が片方なく、可愛らしい顔は口元が引き裂かれ、歯茎が見えていた……さらに、腿やらに残る噛み跡……止めにふくらはぎの肉が鋭角に切り取られていた。

 ──ふくらはぎの肉だけは刃物を使ったな。

「凶人だな」伊伏は何事もないかのように断定した。

「だねー。オレもーいぶっちのー意見にさんせー」
 加東が明るく追随し、幸都は重い溜息をつく。
「喰い殺されている、これは間違いない……しかも後に食べるために一部肉を切って持ち帰っている……俺も凶人だと思う」
 幸都が言い終わる前に、でっぷりと太った壮年の男が現れた。
「結論は出たかね?」
 鑑識班で三〇年のキャリアを積んだ、野々山盛(ののやま さかる)だ。
 警視庁にいながら『特務処理』係に含む所のない、数少ない人間でもある。 
「……かわいそうに、まだ若い娘さんが」
 嘆く野々山に伊伏が尋ねる。
「死因は……現段階で分かりますか?」
「そうさなあ……」野々山が手に持ったタブレットを操作する。
「司法解剖の結論で変わるかもしれんが、出血性ショック死だろうな」
 野々山の太い幼虫のような指が、自分の首の片方を撫でる。
 戸田亜美の欠けた首部分を示していた。
「……で、凶人かね?」
 まるで天気でも聞くように、野々山が問うてくる。
「間違いなく……この子は喰われている」と伊伏が目を伏せる。
「そうかー」
 野々山がぼんやりと視線を浮かせた。
「なら、今年五件目の凶人事件だな」
「つまりー、オレ達のー、でばーん」
 加東の手が自らのベルトの拳銃を撫でた。
 幸都は伊伏ではないがもう疲れていた。これから行う『行為』について考えると、体の芯が嫌悪に震える。

 ──だが躊躇はしていられない。やらなければいけないんだ。

 もし戸田亜美を喰った犯人を逃がせば、誇張ではなく数か月で日本が終わるからだ。
「被害者……もういいかね?」
「はい、司法解剖へ回して下さい」
 伊伏が頷き、ようやく全裸を晒していた戸田亜美に毛布が掛けられる。
 数人がかりで運び出される被害者の体を見送った後、幸都は捜査用の手袋を嵌めながら、改めて周囲を見回した。
 女子学生が一人で住んでいるのに相応しく、部屋はこざっぱりとしていて、数着の洋服が掛けられているハンガーラックと、円形の白いテーブル、ノートパソコンに液晶テレビくらいしかない。
 ふと、幸都の目の端が光る。
 金色のカードがテーブルの上にあった。
『KING・GYM』……スポーツジムの会員カードのようだ。スマホで写真を撮る。

 ──うん? なんだこれ? ……折り紙? 何でこんな物が?

 カードの隣に小さな折り紙で折った鶴があった。意味があるか分からないので手をつけない。
「……とにかく」伊伏が呆然としているかのように一点を見つめ、言葉を紡ぐ。
「気になる事があったら記録しておけ。俺達に情報が降りるか疑わしい」
『特務処理』係は警察の中で浮いている。存在意義を問う警官さえいる。国家にとって一番大事な係であるはずなのに、一番捜査に苦戦する。
「……まず被害者のスマホがない」伊伏が挙げる。
「恐らく、最初から凶人はこの娘を『食料』にするために近づいた。だからつながりを消すためにスマホを盗んだ」
「連絡にー使ってたのはー化石化したー電子メール、の訳がないからー電話かチャットアプリだねー。いぶっち」
 加東はどこか笑いながら指摘する。
「チャットアプリ」幸都が呟いた。

 ──だとしたら有力なとっかかりだ。

「何を使っていたか分かれば交友関係を洗える」
「そうだ……何を使っていたか、分かれば、な」
 幸都の目を伊伏が見返した。通信履歴の開示請求さえ出来ればスマホでのチャットの会話は筒抜けになる。だが、今や巷に何百とあるチャットアプリのどれを被害者が使っていたのか、特定は難しい。
「例えば友達とかは知っているだろ? 電話だけで連絡していた可能性もある」
「どーかなー、大衡っちー。さっきも言ってたがー、この娘はー『エサ』だ。凶人は恐らく連絡手段にー、敢えてニッチなーアプリを入れさせてたと思うぜー。電話だけじゃ今時の若い子は騙されないってー」
 幸都に加東は懐疑的だ。
「まー、しかしー。もしかしてー友達に漏らしているかも知れないからー、当たって見るのはじょーしきだけどねー」
「結局、脚で捜査か」幸都は嘆いた。
 ここまで時代は進んだのに、交友関係の捜査に歩き回らなければならないようだ。
「刑事の基本は脚らしい……」伊伏はスマホを出して時刻を確認すると、
「もう二時か……今日の午後には特別捜査本部が立つ。野々山さんの結論で俺達も参加させられるだろう。その前におおよそやるべき事を決めておこう」
「特捜本部はー無視かーい? いぶっち」
 加東に伊伏が首を振る。
「味方も理解者もいない。何よりも速やかな『処理』を優先するのなら、特捜本部で他の刑事と仲良くお喋りをする必要もない」
「ならー」と加東は人差し指を上げた。
「オレはー被害者の大学に行ってみるー……使っていたチャットアプリをー知れるだけでもめっけものー……コトによってはーしばらく隔離もあるかもだけどー」
 幸都は頷いて、スポーツジムのカードを手に取った。
「俺はここに行ってみる……伊伏はバイト先のカフェを頼む」
「分かった」伊伏は了承しつつ、幸都と加東を乾いた目でなぞった。
「骨身に染みていると思うが、躊躇するなよ?」
「わーかっているよー、いぶっちー」
 加東がショルダーホルスターからSIG P226を抜いた。
「基本はー頭に二発、だろー?」
 幸都も思わず自分の拳銃を確かめる。
 彼の二丁は、恵麻の前で装備したまま、革のホルスターに収まっていた。
 幸都は拳銃の重さに憂鬱となり、血の臭いが充満する戸田亜美の部屋で立ち尽くした。

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