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2024/5/9 未熟な自分

ある人間の成熟に他者との繋がりが必ずしも必要不可欠ではない、という証明をしたくてひとりで生きている。

私の人生とはそんな壮大な実験なのである。

なんつって。

最近シラフで他人と話していない。否、話せる気がしない。

いわゆる“ちゃんと生きてそう”な人と対峙して話せば話すほど、自分がどれだけ“ちゃんと生きれていないのか”が露呈する気がして、尻の辺りがモゾモゾする。

そもそも人間的成熟ってなんなんだろう。

家族を持つこと、他者と繋がること。それに伴う困難を乗り越えること。それが人間的成熟に必要不可欠だ、とかいう本を読んだ。
だけどそれってあなたが使う“成熟”の定義の中に“他者との深い繋がりを持つこと(もしくは持ったことがあるこ)”が入っているからでは?と反骨心。

もし“成熟”の判断基準のひとつが“他者を慮ること”とか、そういうのがあるのであれば、必ずしも実際に他者と深く繋がる必要はない。自分を曝け出し相手も曝け出し、それに時には喜び時には困惑して、傷つき傷つけられる。そんなクソ面倒なことを経験する必要なんてない。

ということで、誰とも繋がらずに他人を慮れる人間になりたい私は最近は哲学の本をちびちび読んでいる。哲学の本、といってもまずは“哲学とはなんぞや”を低学歴の私にも理解できるように噛み砕いて書いてくれてる入門書の入門書、みたいな。

きっかけは、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』にとてつもなく共感して感動したから。
過去の自分のあれそれが点と点が繋がる快感と、支持できる新たな考え方との出会い。
彦麻呂がこの本を食べたら開口一番「宝石箱や〜」と叫ぶだろう。

そうして中途半端に哲学に興味を持った今、ますます面倒臭い人間になっている。
今、誰かが「幸せになりたい」だとか「ちゃんとした大人になりたい」だとかが私の聴覚が拾える範囲で口にした途端、「あなたにとっての幸せの定義は何?」だとか「(ちゃんとした)大人って何?」とか定義厨になるな。あは。

だけど、定義って大事よね。
Perfumeの曲で「みんなが言う「普通」ってなんだかんだ実際は多分真ん中じゃなく理想に近い」みたいな歌詞があったけどまさにそう。ほんとそう。ほんとそれ。
よく世の中で使われているから、とかなんとなく自分の中にあるイメージで単語を使っていると、他人と話している時に各々の単語に対する定義の違いで会話に齟齬が生じたり。相手の単語選びにモヤったり。
弁護士が六法全書を暗記するように、日本語話者の私たちは国語辞典を暗記するべきなのでは?とすら思うわ。
そんなんめんどくさすぎるが。

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