白響

 冬も1月、早くも季節の終わりが顔を覗かせていた。早朝から降っていた雨はとうに止んだが、ジメジメとした空気は依然辺りに漂っている。空はどこまでも白いままで、彩色が失敗されたような気がしてならない。
 美術室の大きい窓を眺めながら、のんびり考えていた。ここは校舎の端にあり、人もあまり出入りしないので居心地がいい。1人勝手にしていても、授業が入っていない限りそうそう来客など来ない。
 机に足を上げて生徒から没収した漫画雑誌を読む。おそらく終盤に差し掛かっているであろう話が多く、どうも上手に歩み寄れないでいた。知らない男が衝撃の告白をして、知らない主人公がそれを驚いた顔で繰り返す。脇にはおそらく仲間であろう少年少女が倒れていて、荒い呼吸を零しながら主人公の名前を呼んだ。
 左下に書かれた『つづく』の文字まで丁寧に読んだ時、内線の電話がけたたましく鳴いた。3コール置いてとる。
「はい、山中ですが」
「山中先生、ちょっとね校長が嘉永先生お呼びで。教室にいると思うから連れてきて下さらない?」
 事務員が気だるそうに捲し立てた。1人の教師を呼ぶのにワンクッションを挟まなきゃならんのがそこまで面倒臭いのか。ああ、それともアレの日か。機嫌を損ねないように短く返事した。
建付けの悪い扉を開けると、入れ替わりでもさっとした髪の男子生徒が来た。教室にも居ずらいので匿ってくれと、ボソボソ妙に私に馴れ馴れしく言った。相手にするのもダルい。間借りの交換条件としてパレットの掃除を頼んだ。
 いくら暖かいと言っても、換気だとかで窓を開けっ放した廊下は風ばかりで寒い。風はなく、生ぬるく気持ち悪い空気が時たま肌を撫でる。早歩きで急いだ。
 ふと教室の窓を見ると目の下に睫毛がついていたので、ズレた眼鏡をなおすついでに払った。
「おうい、嘉永先生おるか、嘉永浩二先生」
「おりますが、」
 女子児童が敬語と訛りの混ざった妙な日本語で言った。少女は嘉永先生の方に行って、日誌を書く先生の袖を引いた。そんで、私の方を指さして、胸の前で手を素早く動かした。嘉永先生はのんびり笑って、拙い発音で「ありがとう」と言って席を立った。
「ど、しぃまいたあ?」
「こうちょう、よんでる、いこう」
 私は手話が出来んので、なるべくわかりやすいように口を大きく動かして言った。嘉永先生はまた目尻にシワを作って「ありがとう」と言った。軽く見上げた顔はまろやかに微笑んでおり、眉上の明るい癖毛に寝癖がついている。
 廊下をしばらく無言で歩いて、その事を言った。先生より少し前に歩いて、自分のデコをトントンと指さして、大きく「かみ、はねてる」と。すると先生は前髪を押さえて照れくさそうに笑った。
 校長室の前で、嘉永先生は私を見て「なんかい?」と聞いた。私は少し迷った後、指を三本立てた。彼は頷いて、ドアをノックした。奥から校長の嗄れた声が返事する。
「失礼します」
 私が短く言ってドアを引くと、低いソファに座った校長が立ち上がる。こちらに、と正面を指さしたので、嘉永先生の手を引いて座らせ、私も隣に座った。
 一息置いて、校長が拙く手を動かす。どうやら、頑張って取得した手話で嘉永先生と話したかったらしい。嘉永先生もそれに応えて、手を動かしつつ声でも喋った。
 彼の声はとても発話が綺麗だとは思えないが、丸い声をしている。彼自身の、温厚で敵を作らない性格がそうさせているのだろうか。それとも、そんな声だから優しい人間になったのか。いや、彼は自身の声は聞いたことがないだろうし、違うのだろうな。
 彼をここに招く以外役割のない私は、校長室の高い菓子を吟味しつつ考えた。
 これは私の持論なのだが、人間性、優しいとか怖いとかあざといとかそういうのは、容姿や身体的な特徴から由来する。先程の男子生徒は荒れた肌と腫れぼったい目元がコンプレックスなので嫌に前髪を伸ばして顔を隠そうと下を向いてボソボソ話すし、事務員は月経の重たさと細くつり上がった目、ホームベース型の顔立ちから性格がキツく、同じ事務をしている同期は彼女を御局様だと揶揄していた。
 その法則に当てはまるように、彼の顔立ちは優しい人、と言われて思い浮かぶそのもののような顔だ。緩く垂れ下がった目とやはり垂れた野暮ったい眉。色素が薄いのか明るい髪色で肌は程よく日焼けしている。少し前にクウォーターだと語っていたので、異国の血がそうさせているのか、背はとても高く、体つきもがっしりしていた。
 大きく笑うと顔がくちゃくちゃになって、児童と話す時は大きな体を丸めて目線を合わせる。
 今も、目の前にいるのはハゲちょびた爺さんだというのに嬉しそうに笑って、彼にもわかるようにゆっくりと一つ一つ丁寧に手を動かしていた。正面に座る校長も丸い腹を揺らして笑い、分からない動きがあれば素直に聞いている。それをわざわざ紙に書き留めて説明した。何処までも、誰にでも丁寧で感心する。
 山盛りになった菓子盆からフィナンシェを選んで開けた。バターの匂いが広がり、美味しそうだね、と校長も手を伸ばした。
「紅茶かコーヒーいれましょうか」
「おお、お願いするよ。よしながせんせい、は、こうちゃ、と、コーヒー、どっちが、いい?」
「こーちゃ、おねあいしあう」
 立ち上がった私を見て嘉永先生が答えた。その際に左手の甲を上に向け、その上にもう一方の手を垂直に乗せて上に上げた。目を細めて人懐っこく笑い、口でパクパク声を出さずに言った。それは私が唯一知っている動きだ。

「失礼します」
「ええ、嘉永先生!また、おはなし、しましょう、ね」
 よろこんで、とパクパク言って手を動かす。オマケのように「山中先生も、ありがとうございますね」といわれた。なるべく愛想良く笑ってまた失礼しますと言ってドアを静かに閉じた。
 時計を見ればもう1時間近く経っている。遠くの山には位置の低い雲がかかっていて、下の方は見えなかった。依然空は白いままだ。隣を歩く嘉永先生は眠たげで、それとなく私がその手に軽く触れれば、柔らかく握りこんできた。彼は体温が高く、私の冷えた指先の冷気を容赦なく奪っていった。顔を覗くと、普段より意地悪く笑った。

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