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20240514 沖縄へ⑪


続いては旧海軍司令部壕へ



戦争学習
お勉強のお時間です



1945年3月から6月にかけて戦われた沖縄戦


太平洋戦争末期、いよいよ日本へ迫って来た米軍を相手に本土決戦を遅らせ、米軍戦力を少しでも削ぐために日本軍は沖縄を舞台とした時間稼ぎの『戦略持久戦』を選択する



作戦立案者は陸軍の第32軍参謀
八原博道

この作戦により、沖縄は事実上
『本土決戦のための捨て石』となった


幸か不幸か、沖縄には『ガマ』と呼ばれる天然の洞窟や鍾乳洞がそこかしこに点在していたし、珊瑚礁で出来た硬い岩盤は爆撃や砲撃にもよく耐えた


壕を掘り、洞窟に籠城し、日本軍は
18万の米軍地上部隊を迎え撃ったが



ゲリラ戦はやがて、一般市民を巻き込みながら地獄の様相を呈してゆく




地上部隊18万に加えて、1300隻もの艦船と総勢55万の兵力が沖縄周辺の海を埋め尽くし

艦砲射撃と空爆によって沖縄に
272万発の砲弾が撃ち込まれた

『鉄の雨』だ

文字どおりの虱潰し
文字どおりの皆殺しだった


森山良子が唄った『さとうきび畑』の歌詞は
比喩でも誇張でも空想でもない


そうしてその雨を受けたのは、壕に立て籠った兵隊達ではなく、一般市民達だった



豊見城の高台に築かれたこの壕は1944年、日本海軍によって全て人力で掘られた

沖縄戦の始まりと終わりが刻まれている場所

戦争の悲しい記憶がこびりついている場所だ


79年前、ここは地獄だった


じっくりと観ていたら
泣けてきてしょうがなかった



死ねる司令官は良い身分だ



米軍に制圧されつつある中で、各地の洞窟(ガマ)内部には軍と市民が入り混じり、中には千人を超す人数が犇めく洞窟もあったという

薄い空気を分け合いながら、米軍の呼び掛けに応じて投降しようとした市民は、背後から日本軍に撃たれた

戦争末期、米兵の手に落ちる位なら自決しろと軍は市民に迫ったが、彼らに渡された粗悪な手榴弾は不発も多かったという

家を焼き出され
どこへ逃げても鉄の雨が降る地獄の中で
『もういいな』『もういこう』
『みんなでいくぞ』と

ひとつの手榴弾で死ぬためにガジュマルの下で身を寄せ合い、手榴弾のピンを抜いた挙げ句

それでも死ねなかった人々が
数多いるという話だ

尚、作戦を立案した八原博道は
最終的に米軍に投降

1981年没
78歳の長寿を全うした



観光バスが次々と入ってくる

ここにも修学旅行生たちが来たけれど

なあ先生

こいつらきっと明日には忘れてるよ

しょうがないよ そういうもんだ

俺だってそうだった
修学旅行は長崎の原爆資料館に行ったけど

悲しいぐらいに今ではなんにも覚えてない


自分で観なきゃだめだ

自分の時間に
自分の金で行って

自分で知らなきゃ無理なんだって




あ~あ

海軍壕を観たのでブルーになってしまった
そんな時こそ酒だ酒だ

宿に帰ってから呑み屋街へ

魚久さん

ポーク玉子 うみぶどう
ふーチャンプルー にんじんしりしり

ポーク玉子も不思議なメニューだ
家でもすぐ出来そうな食べ物なのに沖縄のお店で食べると何でこんなに旨いのか?
謎である

ホールではベトナム人の男の子が働いていた
国際通り 呑み屋街 コンビニ
外国人の店員さんだらけだ

話を聞いてみると留学生との事
日本語も上手ですごいなあと思う

カムーン(ありがとう)
ヘンガップライ(またね)

スマホを使えば
彼らともすぐに話せる時代になってきた
科学の進歩ってすごいよなあ、、


続いてせんべろ街のバーへ
店内にはママと地元の女性客の二人
二人とも50代くらい

さっそく意気投合して情報収集

『なんみんさんには神様いないよ』との事

やはり沖縄の人は大きな神社とかより
地元の御嶽の方を敬っているようだ




そして今夜もバー674へ
結構混んでる


女の子が今日もワンオペで大変そうだ
首里城のように働いていた

俺が薩摩で あっちが冊封使
実に大変そうだ
ぜひ首里城の力になってやりたい

となるとやはり薩長同盟しかないな

俺は今夜も冊封使に話しかけに行く事にした

こうして俺のスマホには地元民オススメの
沖縄そば店リストがどんどん増えてゆくのだ



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