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弥生時代の大和(奈良)って?③ 銅鐸を壊して材料にした『坪井・大福遺跡』と『脇本遺跡』

弥生後期に突如現れた『纒向遺跡』。その『纒向遺跡ができた頃』の大和盆地について、どのような拠点集落があったのかを見ていきます。

ここでは『纒向遺跡』の近くで、銅鐸を壊して材料にしていた『坪井・大福遺跡』と『脇本遺跡』を紹介します。

【『坪井・大福遺跡』と『脇本遺跡』の概要】

場所は奈良県桜井市で、纒向遺跡から少し歩いた位置にあります。


『坪井・大福遺跡(弥生時代後期後半)』

 弥生時代前期から古墳時代まで継続する拠点集落となるような大規模の環濠集落でした。唐古・鍵遺跡にも匹敵する遺跡です。弥生時代中期に最盛期を迎える坪井・大福遺跡で、突線鈕式銅鐸(1式)も出土している。
 弥生時代後期になると環濠を維持しているものの環濠内では遺構数が減少していくとともに、環濠の外(東側)で遺構数が増加する。
 そして 弥生時代後期には銅鐸を破壊し、それを材料として青銅器生産が行われていました。小型の扁平な土製の鋳型外枠が出土しており、銅鏃などの小型品の青銅器を生産していたと考えられています。


(丹羽恵司2009「大福遺跡の青銅器鋳造関連遺物」『銅鐸-弥生時代の青銅器生産-』より転載)
①・②送風管 ③~⑧土製の鋳型外枠 ⑨銅滓 ⑩青銅塊 ⑪・⑫銅鐸片 ⑬棒状銅製品

  上記は「出典:奈良県立橿原考古学研究所 友史会のHP」です。


『脇本遺跡(弥生時代後期後半から古墳時代初頭)』

 こちらも銅鐸を破壊して、原料とした青銅器生産が行われていた。
 小型の扁平な土製の鋳型外枠が出土しており、銅鏃などの小型品の青銅器を生産していたと考えられています。さらには鉄片が出土することから、鉄鏃などの小型鉄器の加工工房があった。

 唐古・鍵遺跡での青銅器生産は弥生時代中期末から後期初頭に終了し、その少し後に大福遺跡で青銅器生産が行われ、続いて脇本遺跡で青銅器生産が行われたと考えられています。


【まとめ】
唐古・鍵遺跡から この『坪井・大福遺跡』や『脇本遺跡』への青銅器生産地のシフトは、大和での「銅鐸文化」の終わりと古墳時代の始まりを象徴する出来事でした。


唐古・鍵遺跡で 青銅器生産をしていた職人たちが、こちら移住して、自らが作っていた「銅鐸」を破壊して、新たな金属器を加工していたのでしょうか?

 それとも、唐古・鍵遺跡で 青銅器生産をしていた職人たちは、別の新天地に移住し、九州から新たな金属器加工の職人がこの地に移住してきた。のでしょうか?

 いろいろ想像が膨らみます。

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