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2人の吉備津彦⑤古墳時代の吉備について

『吉備地方』には全長350mで全国4位規模の「造山古墳」を筆頭に100m以上の古墳が12基と、古墳王国の一つでもあります。
 ここでは、古墳から古代の吉備地方を考察します。

<古墳の数は 全国5位>

古墳の数も意外と多く、全国5位の数を誇ります。数だけを見ると、奈良県より多いです。

1位)兵庫県:18,707
2位)鳥取県:13,505
3位)京都府:13,103
4位)千葉県:12,772
5位)岡山県:11,880
6位)広島県:11,334
7位)福岡県:10,759
8位)奈良県:9,663
9位)三重県:7,128
10位)岐阜県:5,218
※『令和3年度 周知の埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)』(文化庁)


<岡山県の大型古墳>

全長100m程度もしくはそれ以上の古墳を一覧リストにしました。

・黄 ★:三世紀後半の築造。
・ピンク♥:四世紀頃  の築造。
・緑 旗:五世紀頃    の築造。
・青 鞄:六世紀頃    の築造。

【吉備一族の繁栄と衰退】

 『稚武彦命(弟)』の子孫は『下道氏』などとなり、「吉備の中山」より西側にある『備中地域』を中心に栄えたと言われます。

 そして諸説ありますが、『大吉備津彦命(兄)』の子孫が『上道氏』となり、「吉備の中山」より東側にある『備前地域』を拠点としたとされます。
 しかし、『上道氏』は「吉備上道 田狭」などの代に天皇家(大王家)と争うこととなり衰退します。雄略天皇や 次の清寧天皇の御代ですので、五世紀後半とされます。

 このような背景知識をもって、古墳の分布を見てみますと、『上道臣』の古墳と思われる5世紀後半の備前地域の大型古墳は『両宮山古墳群』しかなく、この古墳は、先ほど紹介した雄略天皇(21代天皇)と諍いのあった「吉備上道 田狭」が入る予定だった古墳だったのかもしれません


<大吉備津彦命(兄)と稚武彦命(弟)の墓>

 三世紀以前の大きな古墳は、網浜茶臼山古墳 、浦間茶臼山古墳、中山茶臼山古墳の3つです。

「網浜茶臼山古墳」と「浦間茶臼山古墳」は奈良の「箸墓古墳」をそれぞれ1/3、1/2にサイズダウンしつつ、同じ形をした設計です。「箸墓古墳」は2人の吉備津彦の妹である「倭迹迹日百襲姫命」の墓とされています。

また、「中山茶臼山古墳」は「吉備の中山」に築造された古墳ですが、こちらは、奈良県の「行燈山古墳」の形をそのまま1/2にした設計です。この「行燈山古墳」は崇神天皇(10代)の古墳とされています。


つまり、これらの古墳は奈良と繋がりの深い古墳になります。

そして「中山茶臼山古墳」は「大吉備津彦命(兄)」の墓という伝承があります。

伝承では、「吉備の中山」にある「中山茶臼山古墳」は 大吉備津彦の墓とされています。


<ここからは考察です>

 伝承では、「吉備の中山」にある「中山茶臼山古墳」は 大吉備津彦の墓とされています。 
 しかし崇神天皇(10代)の墓という伝承のある古墳を参考にして築造した墓(中山茶臼山古墳)が、孝霊天皇(7代)の息子「大吉備津彦」の墓というのは、少し無理があるように感じています。
 大吉備津彦の墓は もう少し古い築造と考えます。

 『大吉備津彦命(兄)』と『稚武彦命(弟)』の墓が、「中山茶臼山古墳」よりも少し古い古墳と仮定すると、「網浜茶臼山古墳 」「浦間茶臼山古墳」が候補となります。
 位置的には、東側にある「網浜茶臼山古墳」が「大吉備津彦命(兄)」の墓で、「浦間茶臼山古墳」が「稚武彦命(弟)」の墓ということでしょうか。

 しかし、個人的には、『大吉備津彦命(兄)』と『稚武彦命(弟)』の墓は古墳でなく、弥生時代に築造された「弥生墳丘墓」の可能性があると推察します。

 そのため、次回は、岡山の弥生墳丘墓について調べたいと思います。

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