求愛
間宮征四郎
漁船から落ち、波浪に揉まれる男がいた。長い漂流の末に辿り着いたのは、或る灯台の足元。男はゴツゴツとした岩肌に辛うじて掴まり、己の中で囂しくすらある生への祈念を感じている。諂って靴を舐めるように実直で、もはや剣呑ですらある感覚であった。諦めかけた人生への、最期の求愛のつもりでもあった。
這い上がることは不能でも、残り僅かな体力を振り絞れば、如何にか救助を呼べるだろう。瀬戸際とは、まさしく此処であると思った。
海岸の、無限奈落の内にチラリと灯りが映る。灯台の管理人が、横のボロ屋に移るようだ。周囲を見渡している。男は、今にも解けてしまいそうであった蝶々結びが、固く結び直されるのを感じた。助かったと、そう思った。
何とか気付いてもらわねば。
辛うじて体勢を覆し、海水の、塩分のためにピリピリとするのを嫌って細めていた眼を、思い切りかっぴろげる。
この隙に、何処かへ行ってしまっただろうか。いや、ここに至って今更不安になることなど最早ない。まだ近くを徘徊しているに違いない。
男は生来の自信過剰を発揮しようとしていた。
しかし、霞んでいた視界の、広がってゆくのと反比例して黒い液滴の溜まりゆく心象を、稲妻光る刹那の灰雲として捉える。
貧相な風体で、醜い様貌をしたその管理人はボロ屋に入ると、幼い娘と窶れた妻と共に、粗末な夕食を摂りはじめていた。男はそれを発見するに、初め、憐れだと思った。徒爾に過ぎないとも思った。此方は死にかけ。他人の営みや感情の如何など、気にしている場合ではないだろう。
しかしその管理人一家の、些細にして最高級の幸甚を眺めているうちに、これを阻害することが如何なる悪徳にも敵わぬほどの罪悪であると、どうにもそう思われてきた。いや、或いはそう思うほかになかったのかもしれない。
男は、闇雲な生の渇望を殺すことにした。得体の知れぬ黒い液滴の、溢れ出る瞬間であった。もう、認めてしまうのである。自身の生涯の、如何に陰惨であったかを。そして、何かから逃げ続けていく内に情調の死んでいったことを。
ずっと、上の空で生きていた。晩年を、特に死に方はああだこうだと語って、しかも現実の自分を抹殺して生きてきた。今の自分の延長線上にはない自分を想像していたのである。
焦燥というべきか、嫌悪というべきか。
嘗ては自分を慰めたはずの美しい旋律も、風雅な景色もその色彩を失った。彼は誰時の空を見上げても、陽光に照らされた東雲の、橙から茜へ、浅葱から紅碧へ、薄墨から濡羽へと移ろう、謂わば「色の漸進」がために、脊髄の焼けるような情動を感ずることはなくなった。何かが、死んでしまったのである。それで終始、夢幻の世界に没入し続けていた。砂上の楼閣になっていく己を知覚し、寧ろ意図的な錯覚に夢幻の色彩を当て嵌めてその中に正体を幽閉することで悦楽に浸ってすらいた。
男は、愛することを別の何かと置き換えずには居られないのである。
街を歩いていると、アスファルトの亀裂から空へと伸びる浜簪を見つけることがあるけれども、そんな優しい誘いに自分の脳の溶けていくのを感じてしばらく、我に帰ると、いつも花は惨殺されていた。意識のない内に男自身が毟り、茎をちぎり、花弁を食らって、吐き捨て、踏みつけたのである。
男は泣いていた。
狂飆にも関わらず、美しい夜である。管理人一家の侘しい電燈は無際限の闇に浮かんで、驟雨の如き絢爛を、何者かに奪われることもなく、恣にしている。灯台に纏わりつく螺旋階段の幾何的詩美は、男の落魄れた心に僅か残って燻る火種へ爽やかな風を吹かせ、黝いナンセンスを呼び起こす。
「これも謂わば、心緒の陽炎とでもいうべき可謬であろう。 否、もう構うものか」
そう呟くと男は、手をパッと離した。その所作は、地平線へと続く荒野に初めの一輪を植える少女を思わせるように柔らかであった。まるでゴルゴンの鬼面を差し向けられて、戦慄のあまり歪みそのまま凝り固まったというような男の顔付きもまた、仄かに緩んでいった。
やがて一家の団欒が静かな寝息へと収束するころ、男の肉体は海淵へと沈んだ。
魚群が男の崇高なる自殺を咎めることもなく、然して、諦めの求愛が果たされたことを知る者も居なかった。
間宮征四郎
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