残英

間宮征四郎

空蝉うつせみの、海淵かいえんにも似たその心。詫びしさを堪えて己を抱き、光微かに、陋巷ろうこうの中で春の幻影を見て、惰性の内に情調を死なす。世の中は、そんな生命いのちの自己擁護、となむ。

 私の姉は身体が弱く、今日までの数年間を薄暗い病室で過ごした。見舞いは僅か、周りは生気を失った患者ばかり、窓の外には何処までも続く草原が広がるのみだった。

 朝起きると姉はいつも、のっそりと歩きだし、死の足音だけが不気味に響く廊下に座わる。遥か異国の想い人をしどろもどろに見出そうとするような未練の目を湛えて、自分の番が来るのを待っているようだった。

「せんせ、私には弟がいるのよ。私の病気を治すってお医者様を目指しているの」

 私が通りがかると、姉は毎日そう話しかけてきた。

「あの子はね、私がいないとダメなの。お手洗いにまでついてくるんだから」
「腹を空かせてやいないかしら。せんせ、私はこれでも料理には自信があるんですの」
「ねえ、せんせ。どうしてあの子は来てくれないのかしら…」

 昼ごろになると、決まって優しい歌声が聴こえてくる。姉は歌手になることが夢であった。

 日常生活の中で錆びついた心をゆっくりと溶かすような抱擁と、忘れてしまった故郷の空を見上げた時のサウダージを感ぜさせる、心悲しい歌が診療所を包む。

「ねえ、せんせ。私は歌手になれるかしら」
 午後、掠れた声で発したそれが、姉の最期の言葉になった。

 青く高く晴れた日。葬式の帰り道に私は、駅から少し歩いたところにある公園のベンチに座って耳を澄ませていた。

 ブランコの、擦れるような金属音。子どもたちの、はしゃぐ声。摩天楼の方からは、クラクション。エンジンの鋭い轟音と共に、飛行機は何処かへ飛んでいく。

 天国は何となく空の上にあるような気がする。

 道路へ視線をやると、アスファルトの亀裂から一輪の花が伸びていた。空に向かって、何を言うでもなく佇んでいた。薄紅色の、浜簪アルメリアかもしれない。ゆらゆらと揺れながら、残された空隙で生きていた。

 私は自分の中にたちのぼる、てらてらとした固執が誘うままに、そこへ意味を代入し始めた。

 浜簪はいつからかそこに咲いていて、初めは誰も気にかけることはなかった。知らぬ生命の顛末については案外、誰も気にかけぬのだ。種子がどういう経緯かは知らないけれどもやってきて、理不尽をすら知らず育ってしまっただけのことなのだろう。

 しかしある頃から、行き交う人は一瞥くれて、至当らしく避けてゆくようになった。踏まないように気を遣いはじめたのだ。

 初めは若い男がふと避けたのだろう。次に老いた女がそれを見て、浜簪にまごころを宿した。今度は子どもがやってきて絵本を読み聞かせ、これに気が付いた隣人は水をやる。深夜、行く末を憂いて酒に飲まれた青年は、浜簪の姿に心を固めた。明くる日、やってきた軍人は理由も分からず静かに涙を溢す。

 やがて鳥や猫も、思わぬところにいた同志を見つけて嬉しく思い、見えるところで昼寝をする。北風はそこを守るようにして吹き微睡み、街路樹は、父親が幼い娘を喜ばそうとするように葉をキラキラさせる。

 人も、生き物も、その浜簪に目を遣っているのだ。どうか生き抜いてくれと、裏切られた青年の悲しき祈りを添えて。

「きっと、そうに違いない…」

 私は、一連の空想が救済の芽を植えようとする観測に過ぎないと気がついた。美しさを、ただ愛でるだけでは済まない自分の悲しい性質をも悟った。

 チラリチラリと左右を見て誰もいないことを確認し、ベンチから腰を上げる。よく近づいて見ると、やはり浜簪アルメリア

 私は屈んで、即座にそれを毟った。花弁を引きちぎり、食らって、吐き捨て、踏みつけた。
 
 残英の歌声がこだまし、私は狐の嫁入り。

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