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「いえ、お酒はあまり飲まないんです」

もう何も考えていたくない。息をしていたくない。
そう思うことが一日に何度かある。

小さい頃、お酒というものを知った。
飲むと気分が良くなって、一時的に嫌なことを忘れられるそうだ。
すごい、と思った。
そんなのすごい。ずるい。素晴らしすぎる。
だけど、子供はお酒を飲んじゃいけませんって言われていたから、羨ましかったけど我慢した。
だからお酒の代わりに、何か気分が良くなる薬があったらいいのになって子供心に夢想していた。

少し大きくなって、私が夢見ていた「気分が良くなる薬」に部分的に該当する薬物が何種類か存在することを知った。
でも、その全てが入手困難なものだった。
いくつかは入手/服用そのものが犯罪にあたるし、そうでないものは医師の処方を受けないと手に入らない。
残念ながら、これじゃ駄目だ。
私は嫌なことを忘れたかったし楽になりたかったけれど、そのために犯罪者になることはできなかった。

さらにもう少し大きくなって、私はとうとうお酒を飲める年齢になった。
初めて飲んだお酒の味は、もうあまり覚えていない。沢山飲むと頭がぼーっとして、酔い潰れて醜態を晒さないことだけに必死になった。自分がふらついていないか、騒ぎすぎたりしないか、吐いたりしないか、急にとても不安になって、自分の一挙手一投足がおかしくないか考えていた。お酒を飲むことはあまり楽しくなかった。

人の目があるからいけないのだと思い、自宅で一人きりの時に缶を開けることもあった。ここなら誰も見ていないし、大声さえ出さなければ周りの迷惑にはならない。吐きたくなった時にトイレに先客がいることもないし。

度数の強い缶チューハイが好きだった。早く酔えればなんでも良くて、味なんかどうでもよかった。9%の缶を開けて、おつまみは用意せずに酒だけを飲んだ。酔うのに食べ物は要らないから。アルコールだけが必要だった。

そうやって一人きりで酒を飲む時、私は必ず泣いていた。酒を飲んでいると自分の惨めさがひしひしと感じられてくる。
ひとかどの人間にもなれず、仲の良い友達すら作ることができず、かといって良い成績をおさめることもできず、挙句の果てには散らかった部屋でひとりぼっちで缶チューハイ。なんてくだらない人間なんだろう。人間未満だ。
ぼろぼろ涙をこぼしながら椅子に座っているのは何だか滑稽で、床に座り込んで酒を飲んだ。なんだかとても悲しくなって、隣に聞こえないように小さな声で「うわーん」と言って泣いた。その「うわーん」の声があまりにも醜く馬鹿らしく、可愛げのない声だったので、自分の醜悪さに戦慄して、もう一口酒を飲み、今度は声を出さずに泣いた。
短時間に沢山飲んで、もう飲めないと思ったらベッドに横になって、ぼろぼろ涙をこぼしながら眠った。昏倒という表現が近い。どこまでも滑稽な晩酌だった。

そういう夜を繰り返すうちに嫌でも分かってきたのが、私は泣き上戸であるということだった。
飲酒を楽しむには必要な資質とでも言うべきものがあり、私にはその適性がなかったのだ。なぜ酒を飲むと悲しくなったのかよく分からないが、たぶん根が小心者だったのだと思う。

それからさらに何年か経って、私はだんだん無能になっていった 私の無能さがだんだん明らかになっていった。
私にとって、飲み会は「私を皆の前で貶す人に自分の不出来を謝りつつ、雰囲気を壊さないように笑いながら相槌を打つ時間」になった。
私の中でお酒が苦しい記憶と結びついてしまうまでそう時間は掛からなかった。
そうして、私はだんだんお酒を飲まなくなった。

結局、アルコールは私を救ってくれることはなかった。
アルコールのせいではなく、私がアルコールを楽しむことができなかったせいだ。

私が生の苦痛から逃れる方法は、結局ひとつしかなかったのだ。
いや、初めからそれ以外の方法なんてあるわけがないのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
どうして今まで気づかないフリをしていたのだろう。


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