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なぜ私は心理学が学びたくなるのか。



はじめに

 大前提に、この文章を読んでほしい最も重要な読者ターゲットは、この文章を書いている私自身です。つまりこの文章はまず私が私に言い聞かせる為に執筆されています。読者のうち私以外の人は、特別自分の事を言われているのだと思わず、対照して共通項を探したり、時には真っ向から否定してみたりして、各々楽しく読んで下さい。楽しめないなら、きっとあなたが読む必要の無い文章なので、何も気にしないでこの文章を閉じて下さい。


結論

  私は心理学が学びたい訳ではない。
 おそらく、私の本音は、きっとこうだ。
 
「何かを始めようと思い、その方法について(ネットで)調べてみると、調べれば調べる程、現代社会には既にあらゆる種類のツールや方法論とされるものが溢れすぎていて、しかもそうした方法を実践しているたくさんの人々の現実や厳しさや、時には失敗すら予め見る事ができてしまう。そのうち特別な方法なんて無いと気付いたは良いものの、じゃあ次はどうすれば自分を差別化できるのか、特別になれるのかを考えて考えて、それでも思いつかなかった結果、『心理学』というなんだか凄そうな学問に頼るしか思いつかなかった。」
 
 である。
 
 しかし、じゃあ体外的に上記のような考えを披露する事を考えた時、このまま言ってしまうとなんだかネガティブな感じがするし、少し恥ずかしいし、もっとカッコつけたい、と思ってしまう。そんな時にそれ程の時間を置かずに頭に浮かぶシンプルで”良い感じ”の言葉
 
 「心理学が学びたい。」
 
 という半ば逆説的言い換えなのだろう。
 ここまで言ったらもう言う必要もないかもしれないけれど、最後にもう一度。
 私は心理学が学びたい訳ではない。


予め認識しておきたい矛盾

 これから色々私が「心理学」について書いていく前に、予め1つの忘れるべきではない矛盾について説明しておきたい。何についての矛盾かというと、それは「心理学」という言葉の捉え方の矛盾について、に他ならないだろう。
 
 さっきから私が何度も何度も学びたがっているという例の「心理学」という学問は、いったいどんな学問なのだろうか。
 
 心理学とはその名の通り「心理」について扱う学問だろう。「心理を扱う」という事はつまり究明対象は人間の心理、例えば私が今こうして悩んでいる欲求不満な心理状況とか、どうやったら人は幸せになるのかとか、どうやったら人を意のままに操って従える事ができるのか、という事だ。そしてもしそんな学問で「博士」なんて称号を手に入れたのなら、それはもう心理マスター(正確にはプロフェッサー)な訳だから、きっと自分自身の幸せは勿論、自分が他人を幸せにする事なんてのも意図も容易くできるようになるに違いない。これで一安心!
 
 ・・・本当にそう思っているのか?冷静になって、「心理学」という学問は本当にそんな学問なのだろうか。私はこの文章を書く為にわざわざ心理学について学んだり調べたりする手間も時間もかけてないけれど、恐らくかけたとしても、心理学はそこまでの夢の学問では無い筈だろう。
 
 これが矛盾だと思っている。私は「心理学」という言葉に、いや「心理」という言葉の重大さと漠然さに期待や妄想を膨らませすぎていて、現実に存在する「心理学」の着実な研究の積み重ねとか歴史について、無知なまま勝手に飛躍してしまっている。それも何となく理解しているのに、それでも心の弱い部分で以て「心理学」という言葉に寄りかかっているのだ。
 
 だからこの「心理学が学びたくなる」現象について考える為のスタートラインは、こうした心理学についての妄想や偏見をこの場できちんと「ズレている」と断定する事なのではないか。
 
 説明を始めたい。


私が本当に解決したい事

 ここまで読んでくれたのなら、もう「心理学」を「幸福の羽」みたいに使おうとはしないと思うから、いよいよ議題をより現実にシフトさせたいと思う。
 
 端的に言って、私が、諸々の勉強やら挑戦やら、なぜか心理学を身に付けた先に解決したい事というのは、次の3つに他ならないだろう。
 
・金銭的充実
・社会的評価
・健康的生活

 
 これ。結局こう言う事でしょ?別に他人や世界中を幸せにしたいとかじゃないよね。それは2番目。そもそも、他人が誰かに幸せにされたいと思える時、自分を幸せにする人という人物像には「ある程度自己実現ができている人である」という条件がおおよそ付随している筈だと私は思っている。


解決したい事を解決する為に必要な事

 この時、上記の3つは果たして(曖昧ではあれど)どのような方向性で解決できるだろうか。
 
 金銭的充実に関しては、少なくともお金を稼ぐ必要がある。その為には納得できる雇用条件で働くか、製品(サービス)を売るか、誰かからの援助を受けるの3種類に大別できるのではないだろうか。つまり、何が言いたいかというと、もしこれについて勉強するのなら、少なくとも心理学ではないという事だ。確実に、ミクロ経済学、金融、起業、自分のスキルセットのうち一番職に結びつきやすい分野、について勉強した方がいい。
 
 社会的評価に関して、少なくとも職業的な実績か人格的な評価を得る必要がある。その為には人一倍働くか、充実した交友関係を持つか、恩を売るか、信者を作るかに大別できるのではないか。つまり、心理学ではない。教科書とSNSを閉じて仕事に専念する、人と楽しい事を経験する、人に優しくする、どうにかして教祖になる、ことが有効で、心理学が関わりそうな分野ではあるけれど、どれも盲目に心理学に没頭していれば解決する事ではない
 
 健康的生活。早寝早起き、太陽のサイクルと身体のサイクルを合わせる、1日に必要な栄養を万遍なく過不足なく摂れる食生活、友人とのコミュニケーション、恋人とのコミュニケーションとセックス。どこに心理学があるって言うんだ。いやきっと全部心理学の研究対象にはなり得るのだろうが、もし当人がこういう生活ができるのならそれを一々心理学に結び付けてやる必要もないのではないか。むしろ勉強漬けの生活のどこが健康的だって言うんだ。もし高等教育分野である心理学の学習に本気で取り組もうとすれば、それなりに生活面・経済面で負担がかかるし、やはり直接的に健康に結びつくソリューションではないだろう。
 また、心理学を瞑想やヨガに抱きがちなスピリチュアリズム的視点で見るのもやはり正確でないと思う。もし心理学の学習過程に瞑想やヨガのようなプロセスが存在しない事はないにしても、心理学者が研究の過程でヨガや瞑想に関心を持つことと、心理学をヨガや瞑想を以て解釈しようとするのはまた違うと思う。特に、私は幼少期から空手や武道文化を通して禅的思想にもそこそこ触れて来たつもりだから言うけれど、ヨガや瞑想は近代アカデミズムの付録と捉えるには余りに奥が深い概念だから、中途半端にアカデミズムに踏み込むくらいなら最初から1日30分の瞑想を習慣化する”だけ”に専念した方が健康的生活の観点ではいいとすら思う。


3つの解決したい事の裏にある、1つの実現したい事

  ここまで挙げた3つの事柄に共通するのは、全てが自発的な行動で解決可能であるという事だ。結果を掴む為には、自分で考え、自分で実行する。しかしだからこそ、結果はやった分だけある程度見込める事柄だ。
 
 しかし、現実社会はきっとそうではないだろう。自分の努力は自分よりも努力している他者と比較されてしまった瞬間に効力を弱めるし、どれだけ健康的な生活を目指したって悪意のあるなしに関わらず生活を圧迫してくる外的要因が存在する。時には自分を貶めるような人もいるかもしれない。特に、私の個人的な偏見ではあるが、突然心理学が学びたくなるような人というのは(自分も含めて)、多少なりともこうした外的要因に阻まれている感覚に陥いっている、また陥りがちなのではないかと思ったりもする(この考えは否定してくれてもいい)。
 
 そんな時に、その人の脳裏に3つの解決事項にプラスしてある発想がよぎるのではないか。
 
 「他人を思い通りにできたらもっと自分は楽に幸せになれる。」
 
 という願望だ。
 
 まず、私はこの願望は非常に暗い感情であると考え、肯定する気にはなれないという主張をここに示したい。その理由は、自分の人生経験の中で努力と工夫、相互理解の結果他人から尊敬してもらえたり指示に従って貰えた事はあっても、コントロールしようとして上手くいった事はなかったし無理にコントロールしようとして自分が幸せになれた事もなかったからである。
 
 しかし、そうはいうものの、やはり都合の悪い事はなるべく無くしたいと思う。そして自分の心で思うだけなら余計な社会的ストレスが発生する事もない。だからこそ、こうした「他人をコントロールしたい」という言語化すれば非常に傲慢な思考があくまで個人の範疇で許されているのだ。
 
 そして、恐らく「心理学が学びたくなる」という心境のうち最も大きな要素となっているのはこの願望なのではないか、と思う。


なぜ私が心理学を学びたくなるのか。

 ここでハッキリ言語化しておきたい。それはこれからの人生でまた幾度も「あぁ、心理学でも身に付けたらなんか上手くいくかなぁ」なんて恥ずかしい事をボヤいた時にこの文章を読んで冷静になってほしいからだ。
 
 「私が心理学を学びたくなるのは、私自身の努力で自己実現をする事の難しさからそれを半ば放棄して、他人や外的要因を自分の都合のいいように操作する事で楽して結果を出せるようになりたいという浅はかな考えがストレス下で無意識に自分の思考を占領してしまってるからという可能性があって、もし『なぜ今心理学を学ぶのか』にすぐ明確な動機や理由が出ないなら、十中八九、コレだろう。」
 
 「ハッキリ言ってその幻想は上手くいかないし、それは正しい心理学の学び方では無い。もし心理学を用いてそうした心理のコントロールができるとしても、それは自分が思っている以上にかなり高等な技術だ。」
 
 「まずは今の状況を整理して、出せる手札を確認して、出来る事からしていこう。心理学と自己啓発以外で。」
 
 つまり、この文章を読んでいる未来の「また心理学が学びたくなっちゃった」私は、これを読んだだけでは何もしてないのと同じなので、さっさと出来る事をしてみましょう。なんでもいいので。


心理学という選択肢を捨てたら何から始めればいいか。 ~ツール編~

  ここまでの復習も兼ねて再び説明すると、少なくともこの文章における現代の「心理学を学びたくなる」という文脈には、
 
 「現代社会には既にあらゆる種類のツールや方法論とされるものが溢れすぎている。」
 
 という前振りがあった。
 
 これ以降の説明は若干社会学的なニュアンスに踏み込むが、インターネットが生活インフラとして水道、ガスと並ぶ程に重宝されるようになって30年程、現代はマルチメディアでの専門家の入れ知恵からAIによるツール、サービスまで、もはや個人ユーザーレベルの目線からすれば、ツール選びという観点において「こんな事できないかなと思ってもこの世のどこでも提供されていない」なんていう機能不足はどんどん消滅し、それどころか魔法みたいな素人の想像を越える凄いツールが日に日に発表されている。
 
 「なら、きっと現代の人々は昔に比べてうんと自己実現しやすくなっている筈!」
 
 というロジックは比較的色々な場面で見聞きした事はあると思うし、実際多くの若者は”長老たち”から発せられるその論旨をモヤモヤしながらも否定できなかったのでは無いだろうか。なぜなのか。
 
 1つの考えとして、「サービスとツールの進化」と「平凡な1人1人の人間という単位での理想の自己実現の在り方」があらゆる部分で少しずつ噛み合っていないのではないか。
 本来「自己実現」という概念はネットとは一切関係が無く、さらには文明すら越えて生物の潜在的欲求として存在している。この欲求の発生要因は自然界で群生動物がコミュニティを築くために構造的に必要になった外的なモノかもしれないし、もっと脳科学的に幸福感を得る事を目的として定義されたプログラムコードという内的なモノかもしれない。
 ただどちらにしろ言える事は「自己実現だけを考えるならば、そこにツールの高度化という要素の直接的な関連性は薄い。」と言える可能性が高いということである。恐らくツールの高度化が真価を発揮するのは、初期の自己実現をする道程以上に、ある程度社会におけるアイデンティティの確立ができた上でより進化しようと新たな挑戦をする時なのではないだろうか。
 
 むしろ、これから何かしらを形にする為の行動を始めようとする人々にとって、目の前に颯爽と現れる「最先端のツールたち」は自身の高機能さを前面に出しすぎるせいで、知らず知らずのうちに初心者の「シンプルで粗製でもいいから、アウトプット(自己実現)までの流れがコントローラブルで把握しやすい方が助かる。」という声にならない声に逆行し押し潰している可能性はないだろうか。疑問形にしてはいるが正直そういう例は結構体験してる気がする。
 
 高機能ツールが「できるに越した事ない」と言って凄すぎる機能を追加し続けるように、使い始めたい人が「できる事が多すぎて自分なりの使い方が見つけられない」と言って挫折し続けているのかもしれない。
(というか今は世の中の話じゃなくて自分の話をしているんだった。これは自分の話。)
 
 ただ、そうした状況下でも「コレとコレは自分が使う機能だと分かったから、それ以外は無理して覚えなくていいや。」となれた一定数がまた新しい自己実現の階段を昇って行くのかもしれないが。


心理学という選択肢を捨てたら何から始めればいいか。 ~失敗リスク編~

 心理学が学びたくなる前振りにはもう1つあった。
 
 「既にあるたくさんの実践例から現実の厳しさや失敗すら予め見る事ができてしまう。」
 
 ことだ。これは言い換えるなら失敗リスクの予測によって、リスク回避的な行動としての「諦める」を選択してしまうことだと思う。
 
 今の今まで色々ウダウダ考えて来た私の現状の意見として、この問題に下している判断は、実はとても単純だ。それは、
 
 「いちいちリスクに怯えてないで、できる事(リスクが比較的低い、管理できる)から選んだ上で、心が勝手に諦め始める前に動け。」
 
 というものである。
 
 そもそも、自己実現という欲求は多くの場合身の丈以上に高く設定しがちで、そんな欲求を満たせるような作戦なんて、必然的に失敗リスクが高くなるに決まっているんだから、どれだけ立ち止まって考えた所で肝心の実力値が上がらないのなら失敗リスクは0.1%だって下がる事はないからだ。
 ただ、この意見には時勢という反論ができる。景気や市場というマクロな規模感で見た時にはあらゆるモノにトレンドが発生し、歴史を振り返ればトレンドが上り調子の時に成功している人は多いし、比較的成功するのも楽だった”というような思い出話”も聞こえたりする。
 ただ、マクロな運勢の最も肝心な要素は「コントロールできない」事ではないだろうか。逆に実力はコントロールできる訳である。頑張れば。
 我々は何かと物事を自分に都合のいいように捉えがちな生き物だと思うので、きっと運勢も無意識のうちに「幸運が自分を支えてくれるかもしれない」と翻訳してしまっているかもしれないが、この論理は「うっかりなんかよく分からんモノにぶつかって叩き落されるかもしれない」と対偶だし、行動の失敗リスクについて考えている今なら、むしろ後者の翻訳の方がニュアンスが近いかもしれないくらいだ。
 
 要は、それくらい失敗は考えても仕方がない事だ、という現状の持論なのである。
 
 少し格言めいた事を言うけれど、
 
 「成功は1度しかないけれど、失敗は何度でも起こる。」
 
 と思ったりする。成功をゴールとしている時点で、私は転ぶしかない。


じゃあ、差別化ってどうするの?

 知るか。考えたってわかんないんだから取り敢えず行動して結果でデッキ組むしかねぇだろうが。差別化っていうのは自分でカードを作れるカードゲームで自分のデッキを作るみたいなモンなんじゃねぇの?知らんけど。


最後に、それでも心理学が学びたい私へ。

 本当に必要?学費は?心理学ってなんだか本当に分かってる?今ある心理学と関係ない問題をそのままにして学校入ったって卒業した瞬間にまた向き合わなきゃいけなくなるだけだよ?ただの先延ばしになんない?取り敢えず教科書はブックオフ行って100円コーナーから買う事をオススメするよ。
 
 ひょっとして本当に心理学者になりたいの・・・?
 まじか!お前とうとう人生の進路が決まったんか!それなら応援するよ!
 頑張れ!


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