名無しの言兵衛

あなたの名前は何ですか。
まだありません。
ないんですか。
ありません。
それは、なぜですか。
ありません。
理由はないと。
ええ。
でも、あなたはここにいて、ここでこうして私と話して・・・。A、あなたの事はAさんと呼ばせてください。
いいでしょう。
Aさん、あなたのご出身は。
・・・町です。町で生まれました。
・・・わかりました。では、ご趣味は。
音楽を聞きます。それと散歩も好きです。
なるほど、では最近の心に残る出来事は。
・・・昨日のことです。私は駅のホームで電車を待っていました。その時私の隣には呆けた人が座っていました。私は待ち合い席に座っていたんです。その呆けた人は口をあんぐりと開けて、力なく、身を投げ出すように座っていました。私も彼も電車を待っていました。その時、昼1時の倒れかけた日が差したんです。ホームの煤汚れたアクリル屋根を透かした光は私達の目を焼きました。私は目をしかめた時、彼は言いました。
「ああー。」
私は彼を見ました。彼の目は真っ直ぐに開いて、日を突いていました。私は感動しました。それが日の光のことだったことをです。彼は言い表してのけたのです。私には思いも付きませんでした。それ以降私にはそう知ることが出来ているのです。これがとても大切な宝物です。
ありがとうございます。最後に、Aさん。・・・ありがとうございました。他に何かご希望はありますか。
いいえ、もう頂きました。ありがとう。
こちらこそ。
Aさんの輪郭はまるで黒い靄のように霞ながら、綿のように、薄まるように消えていった。
「あぁ、彼は透明人間だったのか。」
彼は今町を歩いている。音を聞きながら、世界に晒されながら、私には見えないだろう。しかしある。私が無いと思っているだけなんだろう。不意に知るんだろう。ありがとう。


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