睡眠不足

不可思議な出来事っていうのは、世間が思っている以上にありふれている。
ただ気付かないだけ。気付いていないだけ。
そして、気付いた時には、それはすっかり日常に溶け込んでしまっているのだ。

引越し初日。
大量の段ボール箱を片付けた私は、ぐるりと部屋の中を見渡した。
八畳のワンルーム。真新しい家具の数々が所狭しと並び、きらきらと輝いて見える。
実家から遠く離れた大学に合格した私は、ついに一人暮らしをすることになった。
女性の一人暮らしは危ない。寮とかもあるんじゃないか。
そう言う親に渋い顔をされたけれど、普段あまり自己主張しない私が意見を曲げないものだから、思っていたよりもあっさりと認めてくれた。
二階建ての地味な学生アパート。その二階の角部屋。
残念ながらそんなにお洒落な外観じゃないけれど、今まで自分の部屋もなかったのに、今日からはこの部屋丸ごと私の庭だ。そう考えると、それだけでわくわくしてくる。
同時に、やっぱり不安もあった。
親の言うように、女性の一人暮らしを狙ったニュースもちらほら聞くし、そもそも一人暮らしなんて私にできるのかな、とか。
そんな期待と不安に胸を焦がす私をなだめるように、春先のまだ冷たい風が、開け放しの窓から入ってきた。
風に誘われるように、窓に歩み寄った。これから生活するこの町を眺めてみようと思って。
と、風に混じって、チリリンと、涼しい音が聴こえた。
風鈴の音だ。
窓から音の出所を探してみると、案外すぐに見つかった。
道を挟んで目の前の、少し古びた平屋建ての一軒家。その家の縁側に真っ黒な猫が丸まって春の陽気を浴びていた。
その軒先に、風鈴が揺れていた。綺麗な淡い水色のガラス風鈴で、赤い模様が点々と見える。
まだ春も初めなのに、気が早い人だな。
そんなことを思いながら、少し身体が冷えてきた私は早々に窓を閉めた。

その日の夜。
初めての一人暮らしの夜を迎え、私はなかなか寝付けずにいた。
元々枕が替わっただけでも眠れなくなる性質だったけれど、今日はそれだけだというわけでもなく、深夜二時を過ぎても眼はパッチリ冴えていた。
明日からの新生活への興奮か、一人暮らしへの不安か。胸の奥がもやもやして、何度目かも分からない寝返りを打つ。
薄暗闇の中で、今日調えたばかりの自分の部屋を眺めてみる。
デスクも、テレビも、電灯も、床も、天井も。どれもこれも見慣れなくてよそよそしい感じがする。
辺りは既に寝静まり、シンと冷えた空気。世界に一人ぼっちのような孤独感。
そして、時折あの風鈴の音が聴こえた。
チリリン、チリリンと。
静かな暗闇の中、その音はやけに響いて聴こえる。気にするなと自分自身に念じても、一度気になってしまうともう駄目で。執拗に風鈴の音は鳴り続ける。
耐え難くなって、ついには両手で耳を塞いだ。
結局その日はいつ寝たのかも分からず、気付いたら朝を迎えていた。

そして、引っ越してきてから数ヵ月後が経った。
やたらとやかましい蝉の声。アスファルトをジリジリと焼く直射日光。風鈴の似合う季節、夏がやってきた。
一人暮らしにようやく慣れてきたのも束の間、今度は慣れない暑さに苦しんでいた。
その日の朝も、私は汗だくになって目を覚ました。
うだるような熱気と蝉の声。今年は例年稀に見る猛暑らしい。
「……あつい」
身体中、汗だらけで気持ち悪い。とりあえずシャワーを浴びようと思って、重たい身体を引きずり起こした。眠気でぼんやりしたまま、ふらふらと歩く。
お風呂に向かう途中、やかましい蝉の声に混じって、チリリン、といつもの風鈴の音が聴こえた。
涼しいその音に少し暑さが遠のいた気がして、気持ちが楽になる。
窓から、向かいの家の縁側をのぞいてみると、いつものようにその風鈴は釣り下がっていた。
私が引っ越してきた日から今日まで、ずっとそのまま。
そして、縁側には黒猫が丸まっている。いつもの光景。あれだけ真っ黒だと暑そうだ。
庭先は夏の日差しを浴びて、元気のいい草が伸び放題で、手入れをしている様子も無い。
この家の住人は相当ずぼらなんだろうなあ、なんて考えを廻らせてみる。
家は向かいにあるのに、不思議なことに今の今まで一度も住んでいる人を見たことが無かった。
初めの頃は風鈴の音に悩まされてなかなか寝付けず、ずいぶんと住人を恨んだけれど、今では日常の中にすっかり溶け込んでしまった。
それどころか、近頃はその涼しい音色に随分と助けられている。
今度は住人に感謝しながら、我ながら単純だなと思う。
そんなことを考えながら、私はのそのそとシャワー室へ向かった。

ある夏の夜。
いくら昼よりも涼しくなるといっても、その日は寝苦しいほど暑かった。
タイマーでエアコンが切れてしまうと、すぐに暑くて目が覚めてしまう。
またタイマーをセットして眠る。暑くて起きる。その繰り返しで、すっかり目が冴えてしまった。
寝返りを打つのにも疲れた私は、何か飲もうと思って、布団から身を起こした。
そのとき、いつものように風鈴の音が聴こえ、なんとなく窓の外に目をやった。
空には綺麗な満月が浮かんでいた。奇妙なくらい明るい満月の夜。
眠れないのは、明るすぎるからなのかな、なんて思いながら、ふと視線を下にやって、私は少し驚いた。
風鈴の釣り下がっている縁側に、人がいた。線の細いお婆さんが、穏やかな表情で草だらけの庭を眺めていた。傍らにはいつもの猫が寄り添うように丸くなっている。
あのお婆さんも寝苦しくて起きてきたのだろうか。
今までどんな人が住んでいるんだろうと思っていただけに、ちょっと新鮮で、ついお婆さんに見入ってしまう。品のいい感じで、とてもずぼらな人には見えない。
そんなことを思いながら眺めていると、不意に、お婆さんが視線を上げた。
バッチリ視線が合った。
観察していたことに気付かれた。
なんだか申し訳ないような気恥ずかしい気持ちになって、私は慌てて会釈すると逃げるようにして布団に潜った。
窓際から離れる直前に見えたお婆さんの顔は、笑っているようだった。

ようやく夏の暑さも過ぎ去り、涼しい風が吹き始める頃。
その頃になっても、風鈴は相変わらず涼しい音を響かせていた。
春先からずっと吊り下がっていたことを思い出して、一年中このままなんだろうなぁ、なんて思う。
その日は雨が降っていた。
空は鈍い色の雲に覆われて、朝から細かな雨粒がパラパラと降り続いている。
そんな日に限って冷蔵庫の中身は空っぽで、しぶしぶ私は買い物に出かけることにした。
アパートの階段を下りていくと、偶然大家さんに出くわした。
大家さんは、少しぽっちゃりしたおばさんで、顔を合わせるたびに私に気さくに話しかけてくれる。
一方で人と話すのが少し苦手な私は、いつも簡単な挨拶だけ済ませてそそくさと逃げてしまっていて、申し訳なく思っていた。
今日もいつものように大家さんがにこやかに話しかけてくる。
「あら、こんにちは。こんな雨の日にお出掛け?」
「こんにちは。……えぇっと、ちょっとお買い物に」
そう言って、自前の買い物袋を持ち上げて見せる。
「エコバッグ? 若いのに偉いのねえ」
「えぇ、まぁ」
急に褒められて、ちょっと困る。ビニール袋が有料になって、少しでも節約したいだけ、なんて言えない。大学生のお財布事情は厳しいのだ。
曖昧に濁したせいで、会話が途切れる。そうして、私はいつもそそくさと逃げてしまうのだ。
いつもみたいに適当に逃げちゃおうかな、と思ったその時、雨音に混じってチリリンと風鈴の音が聴こえた。
そういえば、どれくらい前からあの風鈴は吊り下げられたままなのかな。
疑問に思った私は、ふと大家さんに聞いてみた。
すると、
「風鈴? あぁ。去年の夏にあの家の人が亡くなって、それからずっとねえ」
「亡くなった?」
私の言葉に、大家さんは、少し寂しそうな顔をして、答える。
「とても感じのいいお婆ちゃんが一人で暮らしててねえ。まだまだ元気だと思ってたのに。亡くなった、って聞いた時はびっくりしたのよ」
感じのいいお婆ちゃん。私はその言葉に引っ掛かりを覚える。
「えっと。どんな感じのお婆ちゃんだったんですか?」
私が興味を持ったのを意外に感じたのか、大家さんはちょっと驚いた顔をしながら、続けた。
「そうねえ。優しい人で、夏が好きってよく言ってたわね。よく縁側で庭を眺めながらニコニコしてたわ」
私は、全身から血の気が引いていくのを感じた。じっとり湿った冷たい風が吹いて、全身に鳥肌が浮き上がる。
「あ、あのっ! 亡くなったのは、去年の夏、でしたっけ?」
自分でもびっくりするくらい、大きな声が出た。聞き間違いだと信じたい。
大家さんは怪訝な顔をしながらも、答える。
「そうよ、あなたが越してくる前の夏頃だったかな。孫から風鈴を貰った、って嬉しそうに言っててねえ。その夏を終えないうちに、亡くなっちゃうなんて。だから、夏を最後まで楽しめるようにって、遺族の方達が残していったのかもしれないわね、あの風鈴」
後半の大家さんの声は、私にはもう聞こえていなかった。
あの日、お婆さんと目があった瞬間が脳裏にフラッシュバックして、ゾッとした。
じゃあ、あのお婆さんは一体なんだったのか。
「ちょっと、大丈夫? さっきから顔色悪いみたいじゃない」
「すみません、ちょっと具合が」
心配そうにしてくれる大家さんを振り切って、私は部屋に駈け戻った。
大した距離を走ったわけでもないのに、息が荒い。息を整えながら、鏡を見る。大家さんの言うとおり、酷く顔色が悪い。
電気をつけない室内は薄暗く、しとしと静かな雨音が響く。

そして、チリリンと、風鈴の音。

風鈴の音に引きずられるように、私は窓際に目を向けた。
もう窓に少し近づけば、いつもの縁側が見える。

チリリン。

見たくない。でも、この目で確認しないと、気が気じゃない。

チリリン。

少し震えている自分に気付いて、余計に震えが止まらなくなる。

チリリン。

気持ちは怖気づいて、でも見ずにはいられないから、少しずつ足は窓際に向かう。
そして、縁側が見える距離まで、窓に近づいた。
ゆっくり視線を下に移す。
そこに見えたのは、いつもの光景。
しとしと降る小雨の向こうに、いつもの縁側、丸まった黒猫、風に揺れる風鈴。
お婆さんは当然いない。
それはそうだ。そもそも見かけたのはあの夏の夜、一度だけだ。
思えば、あの日はうなされてたし、悪い夢を見たか、寝ぼけてたりしてたのかもしれない。
そう思ったら、ふっと気持ちが楽になった。
気のせいだ、気のせいに違いない。
気が緩んで、ほぅ、と息を漏らした時、つい、と黒猫が顔を上げた。
猫はこちらを見ていた。こちらを見て、じっと目を逸らない。
私も、なんとなく猫の目をじっと見返してみた。
そこで、違和感に気付いた。
猫の目は正確には私を見てはいない。
その視線の先は、私の背後。
それに気付いた瞬間、私の背筋を冷たいものが走った。
慌てて後ろを振り返る。
しかし、やはり誰もいないし、何も無い。
再び猫に目をやると、いつの間にか、もういつものように丸まっていた。
もう一度、部屋の中を見渡す。
誰もいないし、何の気配も無い。
ただ、自分の心臓の音だけがうるさい。
気のせいだ。全部気のせいだ。
必死に自分に言い聞かせる。
それでも、風鈴の音が聴こえるたび、脳裏にお婆さんと猫の視線がよぎっていく。
もう嫌だ。
これじゃあ、今夜も眠れない。

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