赤い唐傘

こういう事があった。

ある梅雨の日の事だ。
私は大樹の下、止まぬ雨を眺め、天を仰いだ。
ぽつりと、頬に雨粒が落ちるのを感じる。
周囲は、雨音で満ちていた。大粒ではないが、細く柔らかな雨がひっきりなしに降り注いでいる。
既に着物は湿り気を帯び、ひどく着心地が悪い。下駄にも泥がこびり付き、少々重い。
しかし、私はこの不快感もそれほど嫌いではなかった。
かれこれ一刻ほどはこうして止むのを待っている。こうして雨を肌で感じ、雨音に耳を傾けていると、なぜか心が安らぐのだ。
我が家に戻れば家内にどやされるのにも、もう慣れてしまった。心配してくれるのはありがたいのだが、これは性分なのだ。
私はいかに雲行きが怪しかろうと、傘を持ち歩かない。持ち歩くのが面倒であるから、仕方がない。
家まではかなりの距離がある。雨は弱まる兆しが無い。
これはいつものように駈けて帰るしかあるまい、と覚悟を決めた。
流石に風邪を引くのは勘弁願いたいのだが、と思いつつ、一歩を踏み出したその時、目と鼻の先を何か赤い物が過ぎった。
目で追うと、それは傘だった。童女が鮮やかな紅色の唐傘を持って、水たまりに飛び込んでいくのが見えた。泥水が跳ね飛ぶが、少しも気にした風もなく、むしろ何度も水たまりの中で飛び跳ねる。
傘はもはや意味を為しておらず、着物は水浸しどころか泥まみれで、私はそれを見て、親御の苦労を思った。同時に、昔は自身も幼い頃に同じ事をして母に何度も叱られた事を思い出して、思わず笑みがこぼれた。
齢は七、八といったところか。くりっとした丸い瞳が印象的で、水たまりの中、まるで花のように無邪気に笑っていた。
と、いきなり童女が足を滑らせて、水たまりに仰向けに倒れた。派手な水音。呑気に眺めていた私は、慌てて駆け寄った。
絶対に泣き出すだろうと思っていた私は、しかし、そこで驚くことになった。
ひょこりと上体を起こしたその童女は笑っていた。水たまりに浸かってしまった自分がおかしくて仕方ないようで、手足をばたつかせてさらに飛沫を上げる。
これは大したものだと思いつつ、駆け寄った手前、雨も忘れてその場で立ち尽くしていると、童女がこちらに気付いた。
しばしこちらを見て、次に自身が右手に携えていた傘を見る。
そして、ん、と傘をこちらに差し出してきた。
「貸したげる」
突き出された傘を見て、私はしばし逡巡した。好意を無碍にする訳にもいかないが、まさか、こんな幼子から傘を取ってしまう訳にもいかない。
が、この傘でこの子を家まで送って行けばいいか、と考え直し、傘を受け取った。
「ありがとう」
そう言って私は童女の頭を撫でる。
童女は笑った。少し得意げな泥だらけの笑顔。
私もこんな娘が欲しいものだ、と思った、次の瞬間。
まさに一瞬。
瞬きの内に。
その場から童女の姿は消えていた。

傘を手に家に帰ると、迎えに出た家内が意外そうな顔をした。
「あら、今日はちゃんと傘を持ってらっしゃる」
私は家内に事の次第を説明した。
「はぁ、旦那様、狸や狐にでも化かされたのでは?」
家内は馬鹿にしたような口調だったが、私はその言葉にひどく納得した。
「そうか、あれが狐狸の類というやつか」
言いながら、泥まみれで無邪気な笑みを思い出す。こちらまで幸せになるような、満面の笑み。
悪くないものだな。
そう呟くと、家内が変な顔をした。

それからというもの、私は雨の日、傘を度々持ち歩くようになった。
持ち歩くのはあの日の傘。
あの傘は未だに我が家にある。家内は気味悪がって触ろうともしないが。
持ち歩くようになった理由は至極単純である。
あの童女は貸すと言った。
ならば、借りたものは返さねばならぬ。
当然の事である。

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