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【Twitter】突然縁が切れるのも、乙なもの【やめますか?】

 例年、「Twitter辞める」と言っては辞めない人を見かけるが、彼らが辞めるはずはない。なぜなら、本気でやめるつもりなら、そんなツイートをする前にTwitterをアンインストールするからである。実際、僕のフォロー欄から突然消えた人、お別れツイートを最後に浮上していない人は何人もいる。寂しいね(うさぎ並の孤独耐性)。ところが今年、「Twitter終了」「Twitter終わり」という言葉はこれまでで最も使われ、Twitterの存続そのものが心配されている。ユーザーが離れるのが先か、不毛な広告と成金アカウントで埋め尽くされるのが先か、Twitterが終了してしまうのが先か。本稿ではTwitterという、SNSの象徴かつ、万年赤字アプリの存在について、今一度考えてみよう。

 もちろんこんな記事を読むより昼寝でもした方が有益であるし、Twitterが終了するというなら、つまらない辞める辞める詐欺ツイートを見なくて済む。
(本文を書いている間にアプリ名がTwitterではなくX(爆笑)になっていたが、変わらずTwitterと表記させていただく。大人をなめるな)


1Twitter終了するか問題

 結論から言うと、個人的な考えでは明日に終了してもなんらおかしくはないと考えながら利用している(覚悟の違い)。これはもちろん、いわゆるオワコンの意味ではなく、実際のサービス終了のお話である。
 順に考えていこう。今年特に話題になっている「Twitter終了」問題。マスク氏や会社から公式の終了宣言があったわけではないが、トレンドにはなっている。TLで議論したって、相手はプロか素人かも分からないのだから意味はない。業績を見るんだ業績を。
 恥ずかしながら、僕はマスク氏が就任するまでTwitterの業績など気にしたことはなかったが、Twitter社の業績は2018年辺りを除いで、ほとんど赤字である。業績グラフを見て驚いたが、万年赤字と言っても差し支えないだろう。数100万ドルの赤字グラフを見て、コラ画像かと疑った(なんで運営できてんの?)。稀にイーロンマスク氏が介入してからおかしくなったというツイートを見るが、マスク氏のTwitter買収があったのは2022年のことで、業績から言うと元々赤字だったのである。いわば、「万年赤字だが莫大なユーザー数をもつ国境なき箱庭」だったわけで、マスク氏はこれを買収したのだ。
 仮に僕が「Twitter社の社長になりなさい」と言われたら、すぐさまできる限り高く会社を売るか、無理ならどんな手段を使ってでも黒字にしようとするだろう。下がり続ける折れ線グラフを右肩上がりにできなければ、サービス終了は必至である。使い勝手の悪い仕様変更やバグで散々叩かれているマスク氏だが、あの手この手で黒字にしようとするのは当然の行為である。遊びじゃないんだから(遊びでやっているのは僕らユーザーである)。そもそも、ガッカリな仕様変更はこれまでいくらでもあった。だから僕はマスク氏を好きでも嫌いでもないが、行動理由は納得できる。万年赤字の会社を買収して、ユーザーのヘイトを一身に集めるマスク氏、僕が彼の立場だったら三日で頭がおかしくなるだろう。
 Twitterが年々使いにくくなっているというのは僕も感じていて、おそらくほとんどのユーザーの総意だろう。どんどん見にくくなるし、下書きは消えるし、リプライの初期設定が巻き込みリプライになっている。だが僕らが不便に感じているのは、元の「使いやすかったあの頃のTwitter」を知っているからである。TwitterをTwitterだと認識して使っているからなのだ(哲学)。分かりやすく言うと
「今からあなたに、あるアプリを使っていただきます。ちなみに、そのアプリは十年以上赤字です」
 と言われて、今のTwitterを使わされたら、「まあ、赤字アプリならこんなもんだろ」と思うだろう。実際僕は、このように考えて使っているため、不満はあるが文句は言わない。そもそもが使いやすかったのだ。それに加えて、ユーザーの増加と謎のおすすめ表示により、民度は下がり、民度の低いツイートが目の前に流れてくる。
 マスク氏はあれこれと策を練っているが、僕はあえて宣言する。これまでも今後も、Twitterに課金することはない(鉄の意思をもつ貧乏人)。無料で使用できる範囲で使用するし、サービス終了するなら諦める。言わないだけで、ユーザーの九割五分以上は僕と同じ考えだろう。人間、値段の高いものが安く買えたり、有料なものが無料になる分には飛びつくが、値段が上がるのは一円でもストレスなのだ。ましてや、かつて無料で使えたものが課金制になったのならば、それにのる人はごく少ない。一発逆転の策や奇跡がない限り、Twitterは黒字にならず、終焉を迎えるだろう。
 今使えているということが不思議なくらいのアプリなのである。

 余談だが、マスク氏の介入がそこまでTwitterの悪化に関係ないとして、いつからTwitterが使いにくくなったのか。これには諸説ある。人は「いいねがTLに出るようになってから」「広告が出るようになってから」「プロフィール画像が四角ではなく丸になってから(太古の住人)」などと言う。個人的には「『お気に入り』が『いいね』に変わってから」だと考えている。異論は認める(やっぱ認めない)。あのお気に入りの星マークが相当懐かしい。『お気に入り』には、あなたをそっと見てますよと言った寄り添うような柔らかいメッセージ性があったが、『いいね』にはハートマークにより重めの好意を感じさせる節があり、いいねという語句からも、ネガティブツイートに対してリアクションしにくいという問題点がある(たった一つのアイコンから行間を読み取る男)。Twitter公式、「ふぁぼ」をさせろ、させるんだ(懐古厨)。

2平成中期、Twitterは新しかった(アラサー感)

 僕の体感だが、日本でTwitterが一般人にも広まったのは、2012から2014年辺りではないかと思う。アプリ自体はもっと以前から存在していたようだ。
 Twitterの登場と浸透は、インターネットのそれ以前と以後を分断した。少なくとも、僕はそこに変遷(陳腐な言葉だが)を感じざるを得なかった。Twitterの新しかった点は主に二点ある。ひとつは固定のアカウントがあること、もうひとつは、誰でもツイートを見れることだ。仮にこの二点ができたツールがTwitter以前にあったとしても、Twitter以上に普及したものはないだろう。

 ひとつ、固定のアカウントについて。それまでのネットの世界は、匿名性が強かった。もちろんTwitterでも好きなプロフィール画像にできるし、ヘンテコな名前にだってできるのだが、その程度の匿名性ではない。例えば、それ以前も2ちゃんねる掲示板はあったし、今はもう使われているのか分からない「インターネットチャット(ネトチャ)」があった。だが2ちゃんねるはそもそも名前をわざわざつける必要がなく、全員が同一化され、掲示板を離れてしまえば、他の掲示板で出会っても同一人物だとは分からなかった。全員が初対面、おっさんのニートという前提で会話が進む文化があった。
 ネトチャはサイトによるが、ハンドルネームを利用した。これだって容易に変えられるというか、ほとんどの場合チャットルーム入室前に名前を入力する必要があった。だからそのときのユーザーの気分で名前は変わるし、同じような名前の人と会っても初対面前提で話していた。逆に、僕はよく他人のハンドルネームを覚えていて、一ヶ月ぶりにチャットルームで再会しても相手のことを認識できたが、普通にキモがられていたと思う(辛い)。こういったサイトで、あるときは学校の話などをし、週6で出勤している社会人ネキの愚痴を聞き、結婚前提の彼氏と別れた三十路ネキの悲恋を聞いたわけであるが、それはその日限りの出来事で、会話ロムはネットの海に消え、どんな人が真実と嘘を言っているかも分からなくなっていたし、どちらだって良い。
 僕は面白さが分からなかったのでやったことがないが、なりきりチャットと聞いて頭を抱えたくなる人間も多いだろう。メイプルストーリーのチャットログを見せるのはやめてください。
 ともかく以前のネット世界では、固定された個人というのがなかった。映像化した実話の「電車男」ですら、電車男の掲示板を離れれば誰か分からず、仮に彼がインスタやTwitterなどのSNSをやっていても、見つけることはまずできないだろう。
 Twitterのアカウントという概念は、ネットの海に浮かぶ個人を、ひとつの人格として確立させた。名前やIDとプロフィール画像により自分と他人を区別でき、ツイートも削除しなければ永遠に遡ることができるようになった。その人が何週間前にどんなツイートをしたかを見ることができる。そのアカウントをフォローしたりされたりすることで、関係を維持することができる。明日や明後日に何の話題をツイートしようが、Aさんのツイートだと分かる。これは画期的だった。オフ会もたぶん、Twitterの普及から広まったように思う。Twitter普及以前のオフ会に行ったことがないので分からないが、おそらくネトチャでのオフ会となると、決まった時間に決まった部屋に決まったハンドルネームで集まる人たちが連絡先を交換し、それからリアルで会う必要があっただろう(詳しい人教えて)。Twitterならとりあえずフォローしておけば、いつか仲良くなったとき、オフで会いましょうと一言リプライするだけで済む。Twitterアカウントは、それまで毎日名前とチャットが消えていた世界から、特定の個を発生させた。

 ふたつ。誰でも見られるということ。もちろん鍵アカウントは例外であるが、そうでなければ誰でも閲覧できる。いわば、Twitterとは世界中の誰もが閲覧可能なクソでかいノートに、各々が書き放題しているということである。

 このふたつを両立したものは新しかった。例えば、2ちゃんねる掲示板は誰でも閲覧可能だが、匿名性が高すぎて、事件を起こして警察に追われでもしない限り、個人は分からない。一個人が掲示板をいくつ立てても、同じ人物が立てたかどうか分からない。「イッチ(掲示板を立て最初に発言した人)」とは個人を指すが、常に不特定の何者かだった。ネトチャはハンドルネーム文化によってある程度他人と差異化できるが、会話ログは消えていくし、チャットルームに入らなければ会話内容を見ることはできない。僕のところがそうだっただけかもしれないが、ネトチャでは見るだけの人物はだいたい迷惑がられる。いわゆる「ROM」という言葉はこの辺りの文化から発生したわけだ。盗み聞きならぬ盗み見していると、「半年ROMってろ」と言われる(今の子これが通じないってマジ? そりゃ歳とるわ)。
 Twitterは全く新しい、「継続的な個と、断続的な交友関係」を両立させたSNSだ。これの作用か、昨今でもTwitterほど自由で暴力的なSNSは他にないだろう。どのアカウントが何の話題をしても良い。昨日の夕飯、おはようやおやすみ、スポーツ、テレビゲーム、ソシャゲ、オタ活、推し活、恋バナ、政治宗教、下ネタその他、何を言っても自由。
 その結果、脈絡のない「うんち!」ツイートが流れてきたと思ったら、他方では右翼と左翼が罵り合っているとうなんでもありなSNSになった。

3繋がりが消えるのはそんなに寂しいか?

 Twitter終了とは言っても、Twitterの業績を心配している人はほとんどいないだろう(無慈悲)。では何を心配してユーザーたちの間でトレンド化したのか。これはTwitterを見ている人ほど分かるだろうが、「新天地のありか」と「これまでの推しやフォロワーとの交流関係消失」だろう。他にあったら教えてくださいなんでもしますから。
 また、この二点も一言で言うと「Twitterみたいに変わらず気軽にできるSNSで、ネッ友(死語)や推しを見たいし、個人的な発信もしたい」といったところだ。既にこの短い期間で何度も言われているだろうが、Twitterの上位互換、もしくはほぼコピーと言えるSNSはないし、当分は現れないだろう。僕が死ぬまでに現れるのか? 突然「うんち!」と言った五分後、文字数ギチギチになるまでインターステラーの感想を真面目に語って、誰も驚かないSNSなど他にはない。あるわけないだろ。だからこれまでも、Twitterユーザーは他SNSを触ってもそちらに完全移行はしなかった。プロフ画像が円になったのが嫌だとか、広告が出るようになって使いづらいと文句を言いながら、使ってきた。フェイスブックをやってみては「本名顔出しが基本という雰囲気がキツイ」と言って避け、インスタをやってみては「画像が必須なのはTwitterの下位互換」と言って離れたのではないか。しかもこいつらLINEの返信は遅い。
 Twitterを「居心地が良い」と感じる人物が、他に居心地の良さを感じるSNSはない。諦めるんだ。そういう僕も、この前threadsを始めて一瞬でTwitterに戻りました、本当に申し訳ございません(ピストルを自分のこめかみに当て、二発打って倒れる音)。

 ここで一つ疑問なのは、繋がりが消えるのがそんなに寂しいか? ということである。パソコンを触る人が掲示板やネトチャを使っていたネット黎明期。ネットの海で出会った人々は、重い話をしようが軽い冗談を言おうが、付き合いはその時きりで、二度と会うことはできず、出会っても個人を特定するものがないので同一人物だと分からなかった。今日のチャット相手は今日だけで、明日や来週の同じ時間に話せるとは限らない。船で隣の席に乗った人と話しただけだった。だからこそ、重たい話ができたこともある。元々ネットの関係というのは、すぐにでも揮発するものだったのだ。僕自身の世代だとか、チャットユーザーであった感覚だからか、この揮発性には別に悲しみや虚しさを感じない。
 例えばTwitterで、とあるフォロワーが一ヶ月ぶりにツイートしたら、「この人生きてたのか、良かったな」と思うし、「明日は転職先初出勤です」というツイートを見たら、心の中で応援し、いいねやリプライをする。明日にはチャット相手の生死すらも分からなくなっていた時代を考えたら、本当に凄いことだ。
 だが僕は、フォロワーのその後をわざわざ追いかけたり、しばらく更新のないユーザーを他のサイトで探したりしたことは一度もないし、今後もしないだろう。気にもならない。元々現実でも、来る者拒まず去る者追わず、有害な者を無視し無害な者を見守るスタンスだが、Twitterこそ、このスタンスを取るのが一番合った使い方だと考えている。Twitterで消えた人の中には、オフで会って顔も知っていた友人もいるし、大好きだったネット有名人もいる。彼女ら彼らのあとをわざわざ探したり詮索したりはしないし、もしも戻ってきたらそのときは以前のように絡めば良い。戻ってこなかったらたまに思い出して、「元気であれ」と願えば良い。
 例えば僕は「屈強な黒人男性ちゃん」がめちゃくちゃ好きだったのだが、彼女も何年も前にTwitterから姿を消した。その後どうなったのか、調べたことはないし、知らない。TLに現れないのは寂しいが、こうなったら、僕は勝手な想像や願いをするしかない。だから、どこかで暮らしていて、念願の整形も終えたのだろうと勝手に想像している。このくらいで丁度いいと思う。
 縁が切れるときはあっさり切れる、この揮発性もネットの良さだと思う。現実では、地元に帰ると家族やご近所さんが絡むし、職場だと嫌いな人にも話を合わせなくてはならない。ネットではせっかく一瞬で全てを断ち切れるのだから、これを前向きに捉えなくてどうする(突然の啓発)。
 僕は情報や言葉の波に飲まれそうになったとき、Twitterを数週間見ないことがある。その間、僕は他のユーザーが何をしているか分からないし、フォロワーも僕が何をしているか分からない。このお手軽さが良い。正直なところ、マスク氏が関わるとか以前に、コロナ期頃からTwitterの雰囲気はどんどん悪くなってきていると思う(完全に主観です)。
 僕は明日Twitterが終了して一切使えなくなっても、まあ流石に驚くだろうが、かつてのフォロワーをネットで探したり、Twitterの復活を望んだりはしない。これまで関わってきた人と関われなくなるのがそこまで惜しいだろうか。「もし終わっちゃったら、今までの繋がりってなんだったんだろう」という旨の言葉を見つけたが、まるで無駄と言うようではないかな? 僕はネトチャで自分の言葉が方言だらけなことを知ったし、Twitterのフォロワーに勧めてもらった本を読んで、気に入って何度も読み返している。自分の中に思い出がある限り、無駄ではない。

 ただし、広報アカウントだとか、会社の営業用のアカウントの中の人に限っては、無念だと思う。頑張って情報拡散したりフォロワー増やしたりしたのに、それが消えるのはさぞ辛いだろう。

4継続的な個と、断続性のある交友関係をもてるSNSなのだ

 長くなってしまったが(なんでこんなこと書いてんの?)、Twitterとは、「継続性のある個と、断続的な交友関係をもてる唯一無二のツール」なのだ。そしてSNSの例にもれず、高い揮発性をもつ。サービス終了するなら諦めるし、終了しないなら飽きるまで使うというだけだ。あまりネガティブにまとめたくはないが、昨今の、聞きたくもない知らぬ人の愚痴だとか、差別や誹謗中傷が、見たくなくても出てくるような仕様では、「使わない」というのも精神衛生上良いのかなと、しばしば考える。終了したらしたで、良い機会かもしれない。
 オフ会で旅行したことだとか、本や映画の紹介のおかげで名作に出会えたことなんかを心に残して、生きていこうかなと思う。別に、いつ辞めるって話じゃないけど(辞めない人間の台詞)。
 突然縁が切れてどこで何をしているか分からないっていうのも、また乙なもの。


サポートいただいたら本を買ったりご飯食べたりします。