シェアハウス・ロック0621

都市計画から見た『振袖火事』

 明暦2年10月9日、吉原(当時は日本橋人形町付近にあった)の年寄たちが奉行所に呼び出され、移転を迫られた。市街地再開発の第一号ターゲットであった。ところが、これは、市街地再開発のほんの一端に過ぎなかった。
 それに先だって、6月5日に屋敷小割奉行として喜多見五郎左衛門以下4名が任命された。7月11日には、この4名に寺社奉行・安藤重長、松平勝隆、町奉行・神尾元勝(南)、石谷貞清(北)、勘定頭・曾根源右衛門、村越知左衛門が、松平伊豆守信綱邸に集合している。松平伊豆守は、「知恵伊豆」という異名で知られた切れ者である。
『明暦の大火』(黒木喬)では、この会合について、

 この屋敷割の主意事情は詳に知る事能わざれども、(後略)

と、『東京市史稿』から不可思議な部分を引用している。『東京市史稿』は明治34年(1901)年に史料集として編纂事業が開始されたもので、さらにその元資料は『徳川実記』などのはずである。
 さらに黒木さんは『柳営日次記』『明暦日記』『明暦二録』などに拠り、伊豆守は当日登城すべき日であったのにも関わらず、この会合のためにとりやめたと言い、上記「主意事情」を、「推測」している。それは、「主には」武家屋敷地の拡張を基本とした計画立案である。とは言え、市域の拡張は多くの予算を要し、住民の移転が前提であり、困難を極めたことは言うまでもない。
 ところが前記、吉原の年寄連中に申し渡したわずか一週間後に「神風」が吹いた。10月16日の火事で、中心街の四十八町が焼失したのである。
 さて、明暦3年正月18日の昼過ぎ、本郷丸山の本妙寺から火が出て、これが端緒で、翌19日には小石川から出火。これは午前中だったが、午後になり麹町から出火。後二者は、江戸をほぼ南に直線に走ったが、本妙寺からのものは墨田川沿いに南下した。神田あたりから分岐した火は、墨田川を渡り、本所にまで至った。
 ちなみに、明暦3年は、正月早々から火事に見舞われた年だった。まず元旦の夜に四谷竹町から火が出て二、三町が焼け、2日の午前9時に半蔵門外から、4日夜には赤坂近辺から、10時には駿河台から火が出て、この火は明け方まで燃えた。9日の真夜中、麹町で失火。
 前年11月以来、江戸では一滴も雨が降らず、乾燥しきっていた。
 かくて、前回お話しした18日、19日を迎える。
「第一火元」になった本妙寺は、火災後、多くの寺が移動させられたなかで、なぜか移転せず、その場に留まったという。また、特に罰を受けた様子もない。それどころか、寛文7年には勝劣諸派の触頭を仰せつけられている。これも不思議なことである。
 不思議なことと言えば、本妙寺の書上には、

 当寺より出火し、大火となって江戸じゅうの三分の二が灰燼に帰した。これを世間では丸山本妙寺火事といって未曾有のこととした。

と他人事のように書いてあるが、これは『改撰江戸志』の丸写しであるという。
 黒木さんは、

 本妙寺は江戸の北方にあり、冬の季節風が激しく吹けば、絶好の発火点になる。(中略)都市計画担当者のだれかが(「だれか」に傍点)、住職の日暁に意を含めて「明暦の大火」の幕をあげさせたのではあるまいか。(p.60)
 ことによると、(中略)都市計画の最高責任者、松平信綱ではなかったか。信綱の指示であればこそ、本妙寺は火元でありながら移動も命ぜられず、罰も受けず、出世コースを歩むことができたのではなかったか。(p.61)

と、幕府主犯説を展開している。
 なお、「振袖火事」は後の俗称らしく、この表記は同時代の資料にはまったく見えない。「丁酉の火事」「酉年の大火」が普通であり、「明暦の大火」も見えない。

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