シェアハウス・ロック0426

福澤諭吉

 福澤諭吉は兄の勧めで長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。安政元年(1854年)、19歳であった。後、緒方洪庵の「適塾」で学ぶことになり、安政4年(1857年)22歳で適塾の塾頭となる。これは最年少記録である。
 それまでは、この時代の人の例にもれず、漢学である。
 安政6年(1859年)、英語を修める必要を感じ、開港した横浜に行ってみたが、看板の字すら読めず、衝撃を受ける。同年冬、日米修好通商条約の批准交換のため、幕府は使節団(万延元年遣米使節)をアメリカに派遣することにしたが、諭吉は知人の桂川甫周を介して軍艦奉行・木村摂津守の従者としてこの使節団に加わる機会を得た。諭吉は、木村摂津守(咸臨丸の艦長)、勝海舟、中浜万次郎(ジョン万次郎)らと「咸臨丸」に乗船したが、この航海は出港直後からひどい嵐に遭遇し、さんざんなものだったらしい。勝海舟などは、船酔いと称して船室にこもりっきりだったという。
 余談だが、咸臨丸での勝海舟は相当に態度が悪かったようで、福沢諭吉との不仲はこの航海から始まったという説がある。最終的に、『痩我慢の記』などというほぼ人格攻撃のような本に結実した。
 寄港地サンフランシスコで、諭吉は、中浜万次郎とともに『ウェブスター大辞書』の省略版を購入し、日本へ持ち帰った。
 同時に購入した『華英通語』は、広東語・英語対訳の単語集である。こっちのほうが役に立ったようだ。
 同書の英語に、諭吉はカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記し、『増訂華英通語』として出版した。万延元年のことで、これは諭吉が初めて出版した書物ということになる。デジタルアーカイブで見ることができる。
 この書物の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「ヷ」を考案し、用いている。
 帰国後、諭吉は再び鉄砲洲で新たな講義を行うが、このあたりから従来のオランダ語ではなくもっぱら英語になり、蘭学塾から英学塾へと教育方針を転換したようだ。
 その後、福澤諭吉は、「幕府外国方、御書翰掛、翻訳方」に採用され、公文書の翻訳を行うようになった。外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたためである。諭吉はこの仕事をすることにより、英語とオランダ語を対照することができ、これで自身の英語力を磨いたことになる。このころの諭吉は、かなり英語も読めるようになっていたが、それでもオランダ語訳を参照できたことで、英語学習には相当有利に働いたようである。

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