昭和的実録 海外ひとり旅日記 予測不能にも程がある 15 ギリシャ編 (1
日記_017 堂々、アテネ回航
16/may 1978 オロオロ、クタクタ
国境の駅Pithionまで11時間(トルコ側)、最後のçaiを惜しんだその駅から8時間半(ギリシャ側)、列車は平野部をひた走りΔοραμα(Dorama)に着く。
途中線路工夫たちの作業姿が妙に印象的(そういえばとても奇妙なことなのだが、トルコではマニュファクチャー・酪農業・商売する人以外で、産業に従事する労働者たちを街中で見ていない様な気がする)で、ギリシャってこんな「勤勉な国」だっけ、という不遜な思いに駆りたてられたりもしている。
羊が牧羊犬に追われるように闇雲に跳び込んだ(トルコにこんなに滞在しようとは・・・、只々旅を急がなくっちゃという強迫観念に捉われているかの様)かに思えるこのDoramaの街も、実はThomas Cook(london発行の欧州列車時刻表)と欧州地図(1:2750000)を首っぴきに睨み出しての結果であった。
「ギリシャなら海からのアプローチでアテネに入るのが、オシャレ。アテネの海の玄関は、あのPireas港。」
(そう、Jules Dassin監督Melina Mercuri主演「日曜はダメよ」の舞台)というミーハーな発想と、また近くのAkaba港からは色々な行き先へのフェリーも出ているだろう、という唯それだけの理由でDoramaに降り立ったという訳だ。(はぁ〜〜?)
とは言え街に出れば、読めないギリシャ文字ばかりが容赦無く俺のブレインを揺らし続ける。
加えてギリシャの街の造りは観光を除いたら、通りに人懐っこい匂いがしない。通りに食み出て商いしようとか目一杯の自己表現しちゃおう感が街自身に感じられない。
(トルコの街のダイナミズムが恋しいのか)
レストランも路地を入ったところの建物内にちんまり収まっていたり、小さなホテルもどういう訳か細い急な階段を上がった2階にあるとか、とても奥ゆかし過ぎるのだ。
お蔭で我々バックパッカーたちはギリシャ文字にオロオロ、場所探しにクタクタ、苦労することになる。
コラム_24 ギリシャ文字、大問題!
読めないことが、こんな苦痛だとは!
話せないより辛い。
話すのは相手がいること、相手と意思疎通できないのはある意味致し方ないと思えるが、文字は差し当たって対象に意思が無いので、読むことができないとそれ以外のアプローチ方法が途切れる。
すなわち”途方にくれる”のだ。
Pithionの列車の中では、俄か仕込みでギリシャ語のアルファベットと駅名を付き合わせて試るのだが、隣り合わせたオランダの若者とは顔を見合わせるばかりであった。
日常語になればそれこそお手上げである。読めもしない。声にだして発音もできない、勿論意味に至る由もない。
toilet→τουαλέτα
restaurant→εστιατόριο
hotel→ξενοδοχείο
その点トルコではアルファベット表記に準じていて、時に、あごひげ・帽子(何と言うか知らない)様が付くこともあるが連想の内だから、大筋読み・発音・理解には持ち込めたものだった。
ギリシャ文字表記は f→φだし、m→μだし、n→νだし、p→πだし、r→ρだし、スペル間違えてない?って言いたくもなる。
しかも苦手だった数学思い出させるし・・・。
んぅっ これは手強い、ウカウカ禁物!
(という訳で、ギリシャ語表記は明らかに混乱の源なので、地名などアルファベット表記に統一します)
17/ 18/ 19/ may 堂々のアテネ回航
何とか収まった昨晩のホテルで千円位か、トルコよりはずっと清潔なのだから高くは無いというべきか。
(çai、飲みたいなあ。あんな安くて利便な喫茶、何処に行っても見当たらないだろうなあ)
昨晩「Turkish coffee ! 」と思わず注文したのは,マズかった。
(また較べてい〜る♪、トルコと。しばらく続きそう・・・)
Dorama市内は目ぼしいものもなさそうなので、(何が欲しいのだ、失礼な)市内バスでKabaraへ、そのまま港へ直行。
待合でまずは行き先チェック。
・・・・・・・・
チョッと雲行きが怪しい。
Λήμνος、Σαμοθράκη、Αλεξανδρούπολη・・・
あれ、Αθήνα(Athens)がないゾ ・・・
・・・・・・・・
堂々のアテネ回航は、のっけから断念気配となった。
(グッドアイディアだったのに)
Kabaraから一番近い島Thassosへのフェリーに跳び乗る。
(近場移動で、方針変更作戦会議!)
(行き先は何処だろうが)エーゲリアン シーに変わりはない。
Chris Aktiという居心地よさそうなペンションの窓からは、Potamiaの海岸が眼前に一望でき、その砂浜も余りにキラキラと眩しく俺を誘うので、もう一泊することにした。(気が変わるのが早い!)
もう、海水は温んでいる。
20/may 俺のエーゲ海クルーズ
これ程に視界の開けた砂浜は、この旅で初めて。
ツーリストも僅か、存分に泳いだ疲れを持って、夜半のKymi行きのフェリーに乗り込もうという算段となった。
(Kymiはクレタに次ぐギリシャ2番目に大きなΕύβοια(エヴィア)島に位置するが、島名の知名度は薄く、Athensのある本土に張り付いた半島のような印象しかない。)
大理石だろう、磨かれたように海蝕された美しい石を友人への手土産としてPotamiaを離れたのだが、Athensを目指すためのKymiへの航路はThassosには無く、再びKabaraに逆戻りとなった。
23:50 出航
翌6:00 Limnos到着で起こされる。
2時間停泊の間キャッスルに登る、朝靄が溶けると花々の乱舞が出現、花越しに向こうの白い教会をエメラルドブルーの海が染める。
(悲観する事はない。確かなエーゲリアンシーがここにある)
遠のいていくLimnosは幾重にも折り重なった山々の朝日に煙るさまは水墨画のよう、あたかも鷗たちが「ようこそギリシャへ」の使者となって、フェリーの船尾を、時間の限りキールしながら出迎えてくれている・・・・・。
抱きかかえることができそうなほど至近に寄っている鷗たちと揺れながら(エーゲ海クルーズの始まりだ!)と叫んでいる・・・。
(誰もいない海とフェリーの風切り音が、絶叫の大声を一瞬にしてこの世からなかったことにしてくれる)
沖合に停泊したフェリーに漁船が群がる。
Ag.Efstratiosは小さな島だ。
フェリーも横着けできないのだろう、小さな漁船のようなタグボートが替わりにこの島に降りる人を渡している。
1週間に2度のこのフェリー便が全ての供給源だから、取った魚・海老とオリーブ油と交換しているようだ。
彼らの掛け合いの声が紺碧の海に吸い込まれていく。
フェリーで逢った、日本に何度か来たという老人も、(盛んであったあの頃の思いを秘め、帰郷するのだろう)今タグボート役の漁船に乗り移ろうとしている・・・。
ふーっと海の風が、哀しい香りを運んでくるように思えた。
Skiros島を過ぎれば、いよいよKymi、15時間のフェリーの旅も終わる。
Αθήναは近い・・・。
オンボロバスで深々とした樹々の間を抜け、Eretriaへ。バスごと再び連絡船に15分乗れば、あとは1時間でΑθήνα。
既に21時、焦がれるような思いで着いたAthensも、何処なのかも皆目検討がつかない。
しばらく歩いてStudent House(日本で言うYouth Hostelと同じ、カードは日本から用意していた、必要なかったけど)を見つけたのだが、中に入るやCeylon/Iran人の2人組とSweden人カップルで喧嘩模様。どうも肌の色が原因のようである。
これが、俺を迎えるAthensのあまりに呆気ない洗礼か。
くそっ、
構わず、取り敢えずの一夜の宿。
コラム_25 Greek Map〜Athens
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