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自分の現在地を知ること

最近、友人から話を聞いていて、感じたことがある。その人は自分の至らなさを詫びたうえで、私の素晴らしさを伝えてくれたのだが、その言葉を聞きながら私は「今はそんなことを考えている場合じゃないだろう」と思っていた。明らかに心が疲れてしまっているのに、その人が自分自身のことを置き去りにしている様子に違和感を感じていたのだ。

仏教には「菩薩」という概念がある。原始仏教においては、悟りを開き切らない状態のお釈迦様という意味合いだが、日本にやってきた仏教では、もう一つの意味を持つ。日本には新旧問わず様々な経典がほぼ同時期にやってきていることもあり、仏教は独自の発展を遂げている。日本でいう菩薩は、自ら悟りを開ききらず、俗世にあえて身を置き、人と共にある存在を言う。菩薩は途方もなく長い修行の過程で、俗世の人々の苦しみ、悩みにふれ、天界に住まうのではなく、人々に近い場所で救い手となろうと決めている。一見中途半端に見える立ち位置から自分の身の回りのことをこなしつつ、周囲の人に救いの手を差し伸べることで、互いに成長するという考え方は、日本の社会に大きな影響を与えている。学校の部活や会社で先輩が後輩に指導することや、スポーツの試合で相手チームに礼をすることなど、私たちが当たり前にやってきたことが、実は「菩薩信仰」から生まれたものである。

ここで勘違いしてはならないのは、菩薩というのはあくまで、自分の世話がきちんとできたうえで、周りの人たちに手助けしているということだ。単なる優しさから生まれた在り方なのではない。誰かを心配したり、手を差し伸べようとする前に、自分の状態について理解できているかが大切なのである。誰かのために何かができるのは嬉しいことだし、一時は自己承認力も上がるものだが、自分の現在地を棚に上げた状態では、真の救い手にはなれない。自分が本当に何を目指し、どうありたいか、今何が出来て何が出来ないのかを把握していて初めて、自分以外の誰かを思うことができる。

話をしてくれた友人には、まず自分と向き合うように伝えた。それまでどれだけその人が最善を尽くしてきたかは、私を含め関わった多くの仲間が認めている。その人自身はまだ、自分の光の部分も影の部分も認めきれていないのではないかと思う。自分が見てこなかった自分を見るのは、時に苦痛を伴うけれど、ここを何とか抜けてほしいし、何かあれば声をかけてほしいと願っている。ここを抜けて、本当の自分と向き合うことができた時には、必ず軽やかな次の一歩を踏み出せる。何より私に出来ることは、まずその人以上にその人の素晴らしい姿を信じて日々すごすことだと、心に決めている。

自分の現在地、ちょっと不安かも…と感じた方、ご相談ください →https://rain-sound.jimdosite.com/

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