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理想と教訓

ふと考えてみると、3か月以上、どの組織にも属さない生活を送っている。求人情報は見ているし、求職活動をしなければ失業保険ももらうことはできないから、勤め人に戻るつもりが全くない、わけではない。しかし、このコロナ禍で、求職活動も積極的にできる雰囲気ではない。そもそも私が興味を持つ仕事の多くは海外と関わる仕事だし、今求人があっても、いつ風向きが変わって無職に戻るか分からない。3月に契約が終わった派遣の仕事で、その厳しさは経験済だ。

こんな宙ぶらりんな状況の時ほど、考えることは後ろ向きになりがちなものである。少しずつ経済活動が再開し始めている世間の空気を感じながら、自分は3か月前と何も変わっていないのではないか、不安になり始めた。これでいいのか。自分は社会のお荷物になってるんじゃないか。人は生きているだけで充分世の中の何かに貢献していると、頭の中では分かっているのに、自分のことになるとつい「本当は自分って何の役にも立ってないんじゃないか」というネガティブが湧いてしまう。

いかんいかん、こんな弱気ではいいことにならない。そんな気持ちを今朝、お世話になっている人に打ち明けてみた。打ち明けてみて分かったのは2つ。信頼できる誰かに思いを吐き出すことは、自分が思っている以上に大事だ、ということ。そして、全ての願いの奥底にある「何のため・誰のため」は、一人で抱え込んでしまうと忘れてしまいがちになる、ということだった。

これまで学んだことを元にセッションをしようと思っているのも、気学の講座をしようと思っているのも、そしてミャンマーで雑貨屋をしたいと思っているのも、全ては「自分と他者との違いに気付き、それを尊重し、その面白さを理解しあえる社会を作る」ためである。最初は小さなコミュニティでいい。生きていれば間違いもあるし、誤解も当然起こり得る。でもお互いが違う素質を持つ、血の通った生身の人間だと分かっていれば、そこに対話が生まれ、許しが生まれるのではないだろうか。外見や経歴といった表面上の違いは、争いや差別の引き金ではなく、お互いに補いあえる個性として尊重しあうものになる。そんなコミュニティが少しずつ広がって、社会全体が今よりお互いに寛容になれる、それが私の理想だ。

と、この理想から逆算した時、今の私の状況は、決して無駄ではないと思えるようになってくる。世の中に誰一人として無益な存在などいないし、勤め人になるかどうかは、現時点の生活手段の話であって、目指す理想とはある意味別の問題として捉えることができるようになる。よく経営者が、創業理念を見失って利益追求に走る事例を聞いたりするが、それに似た状況が自分の心の中で起こっていたのではないかと思った。理想や自分の根本にある思いは、日々の些事に取り紛れていると、自分が思っている以上にたやすく見えなくなってしまうものなのだと気付かされたのだった。

そんなわけで、これからも極力人と関わりながら、まずは自分のために、自分の目指す理想の社会を語り続けたいと思う。そのための目標や枝葉末節のイメージは変わっていくかも知れないけれど、最終目的は変わらない。そんな私の願いに共感してくれる人と、互いの個性を認め合いながら、楽しくやっていけることを願ってやまない。理想を失う人生ほど、自分にとって辛いことはないー完全に走り出す前に気付けたことは、不幸中の幸いだったと思うのである。

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