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国際交流の仕事を卒業した時のこと

SNSを見ていたら、去年の今日、私は成田にいたことを知らせる投稿が目に飛び込んできた。内閣府が主催している国際交流事業の派遣団の副団長というお役目をいただき、団員達と出発前の最終調整をしていた時のことだ。2週間のプログラムを経て再び成田に戻り、全ての日程を終えた後、程なくして今度は同じ内閣府事業である「東南アジア青年の船」の管理部員のお役目が待っていた。9月から12月まで、丸3か月を内閣府事業に関わって過ごしたわけである。

私自身、学生時代にこの事業の団員として派遣されたことで、多くの変化を経験していることもあり、団員たちをサポートし、彼らがこの期間を通して成長する姿を見られるのは、尚更嬉しいことだった。自分がお世話になった場所に戻り、何らかの形で恩を返していきたいとずっと思っていたので、数多ある国際交流事業の中で内閣府事業に携われることには、特別な思いがあったし、前職で国際交流の経験と実績を積んだのはこのためだった、と言っても過言ではなかった。

国際交流プログラムの現場は体力勝負である。どんなタイプのプログラムであれ、何事もなく予定通りに全てが進むことは往々にして少ない。天候やタイミング次第で様々な結果が引き起こされる。たかだか1週間程度のプログラムだとしても、ずっと随行しているだけで、それまでの準備で蓄積した疲労も襲い掛かり、毎日ヘトヘトになった。期限付の仕事だから出来たことで、これを一生の仕事にしろと言われたら、おそらく難しかっただろう。とても充実する仕事だけれど、現場レベルで関わり続けることは難しいと、どこかで思っていた。そんな時に目に留まったのが、内閣府の国際交流事業に関するポストの募集だった。今振り返ると「ここに関われるまで力が付けば、国際交流の仕事は卒業だ」と思って、目指していた立ち位置だった気もする。

副団長のポストも管理部員も公募制だったから、もし私が手を挙げなければ、なることはできなかった。それにもし私より適任者がいたとしたら、採用されていなかったかも知れない。いずれにせよ、私が応募したという事実、引き起こしたアクションが、今の私につながっている。今はまだ世界中「国際交流どころではない」という雰囲気が漂っているが、この世界の流れに関わらず、あの時もし手を挙げていなかったら…とふと考える。もし、去年の今頃から始まるあの3ヶ月、違う決断をしていたら、私はきっと国際交流への未練を捨てきれないままだっただろう。

迷ったり遠回りしたりの人生だな…と我ながら思うけれど、本当にやりたいことにはちゃんと近づいているじゃないか、とも思う。かつて目指した場所に行けたからこそ見える世界が、今私の前に広がっている。

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