あらゆる思想は、損なわれた感情から生まれる

最近、考えていることを言葉ではなくて文章にする機会が増えた。言葉にする機会は、もっと増えた。

僕は自分の考えについて、どうしてそのような思想が生まれたのか、自分の中にある無意識な背景を考えるようにしている。以前からそのような習慣があったとは思うが、それを強く意識するようになった時期があった。採用に関わらせてもらうようになったときに、ある精神科医が自分が人と接するときにとる姿勢について語っていた内容を思い出したときのことだ。

「自分自身の先入観を強く自覚する、無意識さえも自覚して、自分はそういう無意識や先入観を持っているのだということを自覚した一歩後ろに下がった立場で見る。僕たちは先入観に振り回されてはならないし、その抱いた先入観をはっきり掴んでいないと僕らの仕事はできないでしょ」というようなことを言っていたと記憶している。

人の人生を左右しうる立場で、先入観なんていう一過性の表面的なものに囚われた判断をしたくなかったし、自分の置かれている立場や仕事上の、僕個人の都合を反映していいとも思わなかった。自分と一緒に仕事をするイメージがわくか?などは別に考えて反映すればいいが、なんとなく抱いた印象があるなら、なぜそれを抱いたのか分析できないのも、しないのも怠慢だと考えたのだった。置かれている状況は、彼と近いものがあると思えた。

まず最初に自覚したのは、これから自覚する分析はすべて付け焼き刃だということだった。

そういった習慣ができた事自体は、いいことだと思っている。その習慣ができて気づいたことがあって、どうも思想の原点がネガティブな感情であることが多い。思想自体が論理的整合性の取れた構成を取っていても、私がその思想を抱いた原点には何らかのネガティブな感情がついて回っている。僕はその事実自体は対して重くも、悪くも捉えていなかった。なんとなく、前に進むためにそのネガティブな感情を踏み台にできているならいいだろうと思っていた。ネガティブな感情を出すのではなくて、踏み台にできているうちは問題にならない。

そうして日々を過ごしていて、タイトルに有る言葉に出会った。「あらゆる思想は、損なわれた感情から生まれる」、エミール・シオランという作家の言葉で、悲観主義的な書籍を残しているらしい。興味が湧いたので読んでみようと思うが、この言葉自体には僕はあまり悲観主義を感じないのが正直なところだ。こんな前向きな、損なわれた感情と向き合った言葉はないと思うけど。能動的ニヒリズムというらしい。傷を負った感情を糧として、自分というものを表す思想を体現して強くなることが、頽廃的な精神を根本から転換して、生きていく動機となればいい。

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