妄想ができなくなった
こんにちは。ラストJDのじょんです。
今日は最近妄想ができなくなってきた話をします。
あれ、妄想できん
中高の頃、私は創作活動、特にイラストでの二次創作が大好きだった。楽しくて仕方なかった。
なのでもちろん、主に二次元においての妄想を沢山していた。と思う。
しかし、大学3年のある日のことだった。
オタクである友人たちと遊んでいた。
友人たちは2人で推しキャラや、推しのカップリングにしてほしいシチュエーションの妄想を意気揚々と語っており、とても楽しそうにしていた。
しかし、私はその光景に対し、楽しい気持ちがわかなかった。心底興味が持てなかったのである。
正直、「そんなもの考えて何になるんだ」と思ってしまっていた。
もっと有益な話をしてくれよ、とまで思っていた。
ここでふと、あれ、私、つまんねえ人間になってないか、と感じた。
会話に一々利益を求めるなんて、反対の立場からしたらすげえつまんねえ奴じゃん、と。
なんで妄想が楽しくなくなったのか、ふんわりと考えてみた。
考える余裕がなかった
その時は正直就活のことで頭がいっぱいだった。
娯楽に思考を費やす余裕がなくなっていたのである。
また、頭の片隅にずっと就活の野郎がいたせいで、楽しいはずのことが楽しみきれなくなっていた。
友人と遊んでいても、ふと「こんなことしてていいのか」という不安がよぎるのである。
まあ、オンとオフの切り替えが下手だったんです。ずっとオンのまま。オフにしてもスタンバイモードみたいな。
そら落ち着かんわ。
というか、オフになりきってない状態で遊ぶってのは、遊んでくれている友人にも失礼である。向こうに気を使わせていたなあと、今になって思う。
妄想という娯楽も、心に余裕がないとできないものなのだなあ。
正解にこだわるようになった
妄想というのは頭の中にある自分だけの世界のはずなのに、気づいたら周りの反応を気にするようになっていた。
この表現は、この発想は周囲にウケるかな、と。
そう、妄想なのに「正解」を求めるようになってしまった。
多分Twitterのせい。あれはいいね♡で評価が定量的に分かってしまうし、簡単に承認欲求が満たされてしまう。
妄想に正解なんて、そんなものないんだよなあ。自分がいいと思えばそれでいいのになあ。
創作物を人に見てもらってモチベーションを上げられるという点では素晴らしいツールだが、今後は数字に囚われないように利用していきたい。
ということで少し話が逸れたが、妄想に正解を求めてしまったことで、周囲の反応が気がかりになり、だんだん己の妄想を語ることができなくなったのだろう。
妄想だって創作活動の一種
と言えるのではないか。心の余裕と正解に囚われない自由な
発想が創作活動には欠かせないなあ、と改めて感じた。
なんか無難な感じの妄想ももちろん悪くはないんだけど、自分の世界をゴリ押しで表現してる人の方が惹かれるもんなあ。
子供の頃、肌色に緑を塗っていたような、そんな自由な創作活動を取り戻したいものだ。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。