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映画『マッドマックス』シリーズにおけるフュリオサの台詞「Remember Me(私を覚えてる?)」の真意について

オーストラリア出身のジョージ・ミラー監督が手がける映画『マッドマックス』シリーズの最新作で、前作の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』から約9年振りとなる『マッドマックス:フュリオサ』は、前作に登場した「シタデル」の大隊長の女戦士フュリオサの若き日を描く前日譚であり、前作でフュリオサを演じたシャーリーズ・セロンに代わり、映画『ウィッチ』で本格的にスクリーンデビューを果たしたアニャ・テイラー=ジョイが本作の若きフュリオサを演じている。

僕自身、一応は『怒りのデスロード』の円盤を買うくらいには当シリーズのファンなので(ゲームもやったけどクリアしてない)、待ちに待った待望のシリーズ最新作となる『フュリオサ』は、2回劇場に足を運んで鑑賞した。個人的には非常に満足する内容だったけど、本作に対する観客の評判や感想をSNSなどで調べてみると、比較的好意的な意見が多い中にも「前作ほど熱くなれなかった」とか「繰り返しリピートする気になれなかった」などなど、劇場公開後に口コミで話題を呼んだ前作と比較するとイマイチに感じた人も少なくないようだった。実際、「繰り返しリピートする気になれない」という意見には自分も半ば同意で、というのも前作の『怒りのデスロード』は2時間ポッキリの尺だったのに対して、今回の『フュリオサ』は2時間28分の尺だ。もちろん、その尺の長さも理由の一つではあるのだが、それ以上に「リピートしたくない」あるいは「ノレない」と感じてしまう理由が、物語の演出として意図的に組み込まれているからなのだ。

2時間ポッキリの尺に収まった前作の『怒りのデスロード』は、汚染された荒野ウェイストランドの要塞「シタデル」の支配者である宿敵(ラスボス)のイモータン・ジョーを狂信的に崇拝する(身体にコープスペイントを施した)ウォーボーイズをはじめ、荒野の戦場で火炎放射器付きのギターをかき鳴らす、音楽ジャンルで言うところのヘヴィメタル然としたドゥーフ・ウォリアーの存在など、とにかくエンタテインメント性に溢れたキャラクター達がド迫力のカー/バイクアクションを繰り広げていた。逆に言えば、ある種のマスコットのように愛着の湧くキャラクターたちに「ヒャッハー!」と感情移入させる演出が意図的に組み込まれていたのが『怒りのデスロード』であり、それを映画館で鑑賞した観客もイモータン・ジョーを盲信するが故に銀色のスプレーを口に振りかけて死を恐れなくなったウォーボーイズと同じテンションで「ヒャッハー!」と感情を昂らせ、それこそ麻薬中毒者のように映画館へと足しげく通ってしまう、というメタ的な構造が成り立っていたのも事実。

確かに、今回の『フュリオサ』にもオーストラリア出身の俳優クリス・ヘムワース演じる宿敵のディメンタスやその仲間達のバイカー集団、そしてフュリオサの唯一の味方として登場する警護隊長のジャックは、フュリオサとともに額を黒塗りにした姿が『メタルギア』シリーズの主人公を想起させるとして一部の界隈で話題を呼ぶほど、それらは魅力的な「キャラクター」として描かれていた。

しかし、前作の『怒りのデスロード』に負けずとも劣らない迫力満点のカーアクションは健在であるのに、何故か『フュリオサ』のアクションシーンはスクリーンに対してドライに映るような気がしたのだ。つまり、前作のようにウォーボーイズとシンクロして「ヒャッハー!」できるような作品ではない、そのエンタテインメント性を高める娯楽的な演出が意図的に抑えられていると。その漠然とした疑問に「何故か?」と思考を巡らせた時に、前作の『怒りのデスロード』の公開から『フュリオサ』公開までの9年間の間に→「現実の世界で何が起きたか?」←そこに答えがあるのではないかと悟った。

『マッドマックス』シリーズ自体がポスト・アポカリプスの世界を描いた映画だとするなら、現実世界においても2019年末からコロナ禍が始まり、奇しくも終末世界において人類を脅かす存在として必要不可欠な疫病(Covid 19)が蔓延し、いま現在も人間社会を蝕み続けている。2022年の2月24日には、ロシアのウクライナ侵攻が勃発すると(ロシア・ウクライナ戦争)、その翌年にはハマスによるテロ攻撃を引き金にしてイスラエルによるガザ侵攻(パレスチナ・イスラエル戦争)が起こるなど、前作の『怒りのデスロード』が公開された2015年当時からは到底考えられないような暗殺(未遂)事件や文字通りの戦争(紛争)が世界中で巻き起こっている。

そんな未曾有の現実世界を目の当たりにしたジョージ・ミラー監督が何を思ったかは知る由もないが、それこそ約9年という年月の間に時代の変化が訪れた事を暗喩するかの如く、この『フュリオサ』は近年における現実世界の「温度」をスクリーンに投影した映画のように感じた。同時に、これはジョージ・ミラー監督なりの「優しさ」であると。つまるところ、映画館の観客とウォーボーイズの感情をシンクロさせ、文字通りの「兵隊」としてスクリーン上の戦場へと向かわせた『怒りのデスロード』に対して、スクリーンを飛び出して現実の世界が戦場となっている昨今において、観客をウォーボーイズ=「兵隊」や「イスラエル兵」にしたくないというミラー監督の想いが、今回のウォーボーイズへのドライな扱いをはじめ、またアクションシーンにおいても一貫してドライな演出で観客の感情をセーブしていた(劇中で描かれなかった40日戦争も)。それこそ、映画ライターの高橋ヨシキ氏の「死をヒロイックに描かなくなった」という指摘は実に的確で、観客のアドレナリンを誘発するヒロイックな演出を限りなく抑制した結果が、先ほどの「リピートしたくない」という意見が生まれたり、(口コミで売り上げが伸びた)前作と比較して興行収入が伸び悩んだ最たる理由だと言える。

実は、ここからが本題というか、記事のタイトルにある「Remember Me(私を覚えてる?)」問題について、自分なりの見解を書きたい。まず「Remember Me」問題とは何か?を簡潔に記す。それは前作『怒りのデスロード』のクライマックスでフュリオサが宿敵のイモータン・ジョーにトドメを刺すシーンの「Remember Me?(私を覚えてる?)」という台詞と、今回の『フュリオサ』で描かれるイモータン・ジョーとフュリオサの因縁が結びつかない、という問題(指摘)だ。

今回の『フュリオサ』には、イモータン・ジョーの敵対勢力としてバイク集団「バイカー・ホード」率いるディメンタスが新たな宿敵として登場する。そのディメンタスに対して、物語のクライマックスでフュリオサが「Remember Me」という台詞を吐く場面がある。しかし、それはあくまで物語の序盤でディメンタスに母親を殺されたフュリオサの復讐と因縁をメタする台詞として実に筋の通った台詞となっている。このように、前作のイモータン・ジョーよりも今作のディメンタスの方が「Remember Me」という言葉をぶつけるのに相応しい因縁の相手じゃね?みたいな意見をSNSに投稿している人が一部で見受けられる。もちろん、その意見は完全には否定はしないが、個人的には「ちょっと待ってくれ」という立場で持論を述べたい。

今回の「Remember Me」問題について、周知の通り『怒りのデスロード』が「フェミニズム」をバックグラウンドとした作品であることを踏まえたら、フュリオサとイモータン・ジョーの因縁が薄まった(ように見えてしまう)からといって、『怒りのデスロード』とその前日譚となる『フュリオサ』の根幹を支えるフェミニズムが揺らぐことは決してないと思っていて、むしろ『フュリオサ』が公開されたことでフェミニズムが求める「家父長制からの解放」がより強調された感じがした。つまり、フェミニズムの象徴としてのフュリオサが現実女性すなわちオールウーマン(全女性)の怒りや叫び、そして声なき声に呼応して吐き出された台詞がイモータン・ジョーに対する「Remember Me(私を覚えてる?)」なんだと解釈した。むしろ逆に、『フュリオサ』公開後に台詞の矛盾や因縁問題が指摘され始めたことで、フュリオサという一人の「個人」のミクロ視点から現実女性というマクロ視点のメタ的な台詞に変化する瞬間を目の当たりにする事ができて感動したというか。

そもそも劇中で女性を産む機械(子産み女)として奴隷化し、言うなれば家父長制の象徴として描かれているイモータン・ジョーの最期を描く大事なシーンに「メタ」な「含み」がないわけがない。なので「Remember Me」問題の答えは、「男性」よりも「女性」の方が理解できる、実にアイコニックかつパンチラインが過ぎる台詞なのかもしれない。あるいは、これはミラー監督なりの「男のフェミニズム」に対する答えなのかもしれないと解釈したら、素直に「このジジイカッコよすぎだろ・・・」と、ただただ尊敬(リスペクト)の念しか浮かばない。正直、この「Remember Me」問題を知った瞬間は→「なんでフュリオサという個人の物語にしてんねんw」「全ウーマンと家父長制の因縁を断ち切る物語だっつーのw」「前作の時点で散々フェミニズムと言われてんのに、急にフェミニズムが頭から抜け落ちる映画批評家が多くないかw」とツッコミ入れてしまったので、このように詳細に書いた次第です。なので、全国の映画館はいわゆる「応援上映」ならぬ「Remember Me上映」を企画すべきです(『怒りのデスロード』と『フュリオサ』ともに「Remember Me」とだけ叫んでいいw)。

噂にあった(『フュリオサ』では一瞬登場した)シリーズの主人公マックスの前日譚を描く映画は制作されないとのことで、シリーズのファンとしては残念ではあるが、前作の『怒りのデスロード』の全てに多大な影響を与えた映画『フュリオサ』を完成させてくれたことに、今は感謝の言葉しか出ない(デススト2には全く興味なかったけど、ゲーム内にミラー監督が登場するなら流石にプレイする可能性が出てきた)。

最後に、『フュリオサ』はぽっと出のディメンタスに煽られたり自らの住処を荒らされたりするイモータン・ジョーの哀愁が強く感じられた点も良かったので、僕がイモータン・ジョーの専用サントラだと信じてやまない、アモルフィスのDeath Of A Kingを是非とも聴いてください。

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