エレン・イェーガーは"ありふれた馬鹿"なのか?(進撃最終話感想)

 『進撃の巨人』アニメ最終話を見終えて、エレンの性格描写について思う所があったので、主にアルミンとの会話シーンにおける原作からの変更点に着目して、書きのこしておきます。
結論から言うと、原作ではエレンの異常性が明確に描写されたのに対し、アニメでは異常性がマイルドに描かれおり、エレンは普通の人に過ぎず、「普通の人でも惨劇を起こしうる(だからみんなも気をつけようね)」というメッセージが追加されているように感じました。
以下、その理由を述べていきます。


①8割を殺す必要があったのか?

エレンがミカサに首を切られた直後、エレンとアルミンが道で会話をする回想が始まります。ここでエレンは、人類の8割を虐殺することをアルミンに告げるのですが、この告解のタイミングが原作とアニメで異なります。
原作においては会話の序盤、ショタ2人が川辺に座っているシーンで告解しましたが、アニメ版では、会話の最終盤に変更されていました。ここで注目したいのは、タイミングではなく、告解後の会話の流れです。

原作では、8割を殺すと聞いたアルミンは、
「本当にここまでする必要があったの?  全て僕たちのためにやったの?」と、静かに問いかけます。
エレンはこの問いに明確な返答をせず、無視して歩き出します。

一方アニメ版では、告解後、アルミンはブチ切れてエレンに掴みかかります。(この改変は、原作アルミンが虐殺を肯定しているように見えるという批判に対し、より分かりやすく虐殺を否定している様を描いて答えたのだと思います。)
その後エレンは、「色々試したけど、これしか方法が無かった」という旨の発言をします。

明確な返答の無い原作版には、虐殺以外の解決策(軍事施設のみを破壊するなど)があるのにも関わらず、エレンはそれを選択しなかったと解釈する余地が残ります。そう思って読み返すと、エレンがアルミンを無視して立ち去るシーンは、痛いところを付かれてバツが悪くなって逃げてるようにも見えてきます。
一方アニメ版には、そのような余地は残されていません。「虐殺の必要が無いにも関わらず、自らの欲求に従って殺した」というよりは、「どうしても殺すしかなかったから仕方なく殺した」のだと描いているように見えます。
これが、アニメ版でエレンの異常性が否定されていると考えられる理由の1つ目です。
(ただし、後述しますが、アニメ版でもエレンの破壊欲求を完全に否定している訳ではありません)

②ありふれた馬鹿


アニメエレンは、この地鳴らしに至った理由について
「馬鹿だからだ」
「どこにでも居る、ありふれた馬鹿が力を持ったからこうなった」と自らを評しています。
これはかなり直接的に、エレンは普遍的な一般人に過ぎないというメッセージを伝えているように思えます。

私はこのアニオリシーンを見た時、
「エレンはありふれてねぇよ!!」
とブチ切れてしまいました。そもそも、解決策がそれしか浮かばなかったとて、「どこにでも居るありふれた」奴が人類の8割を虐殺できるでしょうか?
私はそうは思いません。

ただ、冷静に考えてみると、ここでいう「ありふれた」とは、エレンの人格全体を形容しているのではなく、知的能力のみを指しているのかもしれません。
つまり、エレンはありふれた性格の人物である、という意味で言ったのではなく、ありふれた知的能力しか持ち合わせていないから、これしか解決策が浮かばなかったのだ、と述べているだけの可能性があります。
その場合、この改変はエレンの異常性を否定しているものだとは言えなくなります。

初見の時はこのシーンに強い違和感を覚えましたが、今は後者の解釈に至り、納得しています。

③僕にもその気持ちがわかる

「わかるよ」
「この世から人を消し去ってしまいたいと思ったことなら、僕にもある」
アルミンのアニオリ台詞です。
エレン1人に罪を背負わせまいと、アルミンが発したこの台詞は、優しい嘘なのか本心なのかは分かりません。
ただ、少なくとも、同じ破壊欲求を抱いていると宣言するキャラクターが1人増えることで、エレンの異常性は相対的に矮小化されます。
つまり、「エレンの抱いた破壊欲求は、何ら特別(異常)なものではなく、誰でも抱きうる一般的なものだ」というメッセージが読み取れます。
直接的にエレンの異常性を否定するのではなく、みんな少しは異常なんだよ、と伝えることで、間接的にエレンの異常性を小さく評価しているように私には見えました。

④平らにしたかった。どうしても。


さて、ここまでアニメ版がいかにエレンの異常性を否定しているかを述べてきましたが、アニメと原作で、エレンの異常性描写が一致している部分があります。
それが「なんでかわかんねえけど、やりたかったんだ、どうしても。」です。
この発言に至るまでの流れは原作とアニメでやや異なりますが、このシーン自体は完全に一致しています。
「なんでか分からないけど、どうしてもやりたかった」とつぶやくエレン。
これと重なるように、赤ん坊のエレンを抱いたグリシャが「お前は自由だ」と語りかけるシーンが描かれます。
これは、自由を求める強い意志がグリシャから受け継がれたのだと私は解釈しています。
遺伝か、あるいは教育の賜物かは分かりませんが、とにかくエレンには、その成立理由を説明できない強烈な欲求が刻み込まれているのだと描いたシーンでしょう。

アニメ『進撃の巨人』は、王政編を除き、原作を忠実に再現しています。そして、エレンは原作でもアニメでも、これまでずっと「やばい奴」として描かれてきました。
リヴァイ兵長の「こいつは巨人の力を抜きにしてもバケモンだ」とか、ライナーの「この世で一番それを持っちゃいけねえのはお前だ」あたりがいい例でしょう。
そのエレンを、最終話になって急に「ありふれた奴」として描くのは、流石に一貫性が無さすぎるということなのでしょう。
もちろん、エレンは異常な攻撃性や破壊欲求だけでなく、仲間を思いやる「ありふれた」社会性も持ち合わせています。そして、この両面性こそがエレンの魅力だと私は考えています。
しかし、①~③の改変により、エレンがあまりにも「ありふれた」存在になってしまったため、本来のエレンの魅力を保持するために残されたのが、この「平らにしたかった」なのではないでしょうか。

まとめ

総評として、アニメ版の改変は、「誰にでも分かりやすくアルミンに虐殺を否定させながらも、エレンには寄り添わせる」という難題を見事にクリアした神業だと思っています。
それ故に、その本題とは無関係なエレンの性格改変が気になりました。
アニメ版では、(エレンの破壊欲求それ自体を否定することはしませんでしたが)、エレンには選択肢が無かったこと、そして、その破壊欲求自体も何ら特別なものではない、という描写が加わりました。これによって、エレンの異常性がややマイルドな仕上がりになったと考えられます。
私は最初に、この改変の目的を「普通の人でも惨劇を起こしうる(だからみんなも気をつけようね)」というメッセージを追加するため、と書きましたが、正直なところ、そんな啓蒙のためだけにこんな大胆な改変をするとは思えません。かと言って、それ以外の目的は何かと聞かれても思い浮かびません。
皆さんはどう思いますか?

(おまけ) the rumbling の歌詞について

Final season part2 オープニングテーマ "the rumbling" の歌詞に、以下のようなフレーズが登場します。
"I never wanted to grab a knife."
(ナイフを握りたいと思ったことはない)

仮にこれがエレンの心情を歌っているのだとしたら、これは最早、エレンの破壊衝動を根本から否定してしまってます。
迸る殺意《衝動》にその身を灼くエレンはどこに行ったのでしょうね。


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