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障害って乗り越えなきゃいけないの?

障害の概念を考えるきっかけになったエピソードです。

今から20年以上前。
NHKのローカル局でニュース番組のキャスターをしていました。
当時のNHKは、素人同然の契約キャスターの私にも、自分でカメラをまわし、原稿を書き、ナレーションを読む、という一連の作業を経験させてくれました。

その頃の取材で印象に残っているもののひとつが「車いすダンス」です。
「障害者」と「健常者」が手を取り合って踊るという、当時としては画期的なダンスでした。

私は、原稿のラストコメントにたっぷりと思いを込めて、
『障害を乗り越えて…』とかなんとか、暑苦しく書いたのを覚えています。
(うむ、なかなかいい締めコメントになったぞ)
しかし、その原稿を手直ししてくれたニュースデスクからは、こんな指摘を受けてしまいました。

「障害って、乗り越えなきゃいけないのかなぁ?」


障害者基本法

今の私は、「障害者となるか、ならないか」は、どんな環境におかれているかで決まるのだと考えています。

障害者基本法にも「障害者」の定義として『社会的障壁により、日常生活または社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの』という文言が添えられています。

「社会的障壁」とは、物理的なモノだけではありません。
社会の仕組みや法制度、人々の見方や考え方(差別や偏見も)も障壁です。

視覚機能を例に考える

◆メガネやコンタクトが開発されていなければ、視力が弱いくらいの人も障害者だったでしょうし、真っ暗闇の場所なら、誰もが視覚障害者となるでしょう。
◆最近では、盲目の人の目の代わりになってくれる肩乗せロボットが登場しています。そのロボットを遠隔操作しているのは、自由に歩けない寝たきりの人だそうです。寝たきりの人が盲目の人の目となり、盲目の人が寝たきりの人の足となる。誰かの弱みは、誰かの強みを引き出す伸びしろでもあるんですね。(澤田智洋著「マイノリティデザイン」より)
◆東京では、目の不自由な人が白杖を頼りに人混みの中を歩いている姿をよく見かけます。周囲の人が心配そうに目で追ったり、声をかけたりしていて、東京にも親切な人がいるもんだ(ザ・偏見)と温かい気持ちになります。私も先日、駅の改札で困っていた方の道案内をしました。

モノの開発や人々の手助けが、バリアフリーの社会を作り出しています。
それらがない社会こそ、障害です。

障害は、個人にあるのではなく、社会にある。

これが、最近広まってきた障害についての捉え方で、私も同意見です。だから今は、乗り越えなきゃいけないものだとは思っていません。

「障害者なのに頑張っている」「障害者だって出来ることがある」などと、上から目線の捉え方で感動話に仕立て上げようとしていたあの頃の自分を反省。

もしあの頃に戻れたら、もっとフラットな原稿を書きたいです。そして、車いすの進化(操作性やデザイン性)なんかにも注目してみたかったな。最近、カッコいい車いすに乗ってる人、多いですよね。

障害を、個人の能力障害と捉えるのか、社会的なバリアによる生活障害と捉えるのか。
バリアをなくして、誰もが暮らしやすいユニバーサル社会にしていきたいですね。

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