見出し画像

僥倖のロングコース


べらぼうに血圧の低い私にでも清々しく起きれる朝がある。
普段なら思いやりの無い、不愉快な音に起こされる億劫な朝を、優しさにまみれた状態で迎える日が。


べらぼうに血圧の低い私はまず脳を起こす必要がある。
交感神経を働かせることを目的とした喫煙は合理的だ。
これは開き直って一息ついている訳ではなく、こうしている間にも身支度や勤め先への連絡、カフェインの摂取など怒涛のマルチタスクをこなしている。
並の人間には到底真似できない所業だと思うと誇り高い。

もうここまでくると時間が迫ってくることはないが、絶対に取り戻すことのできない過ぎ去った時間を取り戻そうとする心意気を見せることが大事だとされている。

颯爽と、果敢に勤め先へと向かう


今日の空はいつもより青い。
いつもとは違う風の匂いを感じ、いつもとは違う人々とすれ違い、いつもとは違う信号に引っかかる。

べらぼうに血圧の低い私をはじめとした限られた者にしか経験できない同じ場所での情景の変動は大変面白い。

このまま見知らぬどこかへ旅立ってしまいたい、私は貝になりたい、探さないでください

そう思いながら勤め先に着いてしまった。
挨拶が先か謝罪が先か、いつまでも答えが不透明なまま兎にも角にも頭を下げ続けた。
こういったことが一度や二度ではない。
上司のありがたいお言葉を頂く。


「いいか〇〇、どんだけ仕事できんくてもいいから、遅刻だけは絶対したらあかん。」


論として浅すぎる。
べらぼうに血圧の低い私と、時間だけは絶対に守る木偶の坊を天秤に掛けた時、後者が勝るそうだ。
暴論も甚だしく古臭いと思うが、生憎その思考はマジョリティであり、100:0で私に問題がある。
ただその思考が心に刻まれてしまった者は、家事や育児を全て妻に委ね、出してもらった食事の味が薄いだの濃いだのむにゃむにゃ垂れるのだろう。

もちろんよくないことなのは承知の上、
寝坊に対する風当たりをもっと優しく、晴れやかな社会になることを渇望している。

常々思っていた“寝坊”という言葉の成り立ちの問題。

似た成り立ちの慌てん坊や忘れん坊は名詞であり、
“慌てん坊する”というような表現は美しくない。
かてて加えて“坊”の部分が未熟で役立たずなあかんたれ感を出しすぎている。

それを踏まえてこれから私の中で世に言う寝坊を
過寝(かしん)と呼ぶことにする。

過寝してしまっただけ、べらぼうに血圧の低い過寝者だ。

時折過寝してしまう人間に対して
もっと優しい社会、明るい未来がくることはあるのか。
答えは否である。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?