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コチラ側とアチラ側

私は人生における葛藤の先で導いた答えをいつもシンプルでない方にしてしまう。
模範的で当たり障りない判断をすることでどれだけ
スムーズな人生を送れるだろうと思いつつ、シンプルでない方の選択肢を愛しすぎてしまう。変態だ。

先日、勤め先の朝礼で上司から全体への報告があった。
徒歩通勤のある人が道で躓き、両手を大きく擦りむいたという労働災害の報告だ。
つるつるの脳みそを持つ私は

(そんなことも労働災害として扱われるのか)
(骨折などに至らなかったのは不幸中の幸いか)

ぐらいの感情しかなく“誰が”という疑問を避けた。

気になったら負けだ。
その人は気にしてほしくないだろう。

いや、是非とも気にしてほしい、
いい話題ができたので、さまざまな人にさまざまな形で聞いてほしいと思う人がいてもおかしくはない。
いずれにしても私は“誰が”という疑問を避けた。
負けたくないのだ。

朝イチからそんな性癖を掲げながらその日は始まった。

ひと段落して喫煙所に向かった時、そこには違う部署のAさんがいた。

そのAさんは両手を包帯でぐるぐる巻きにしていた。
世界中からかき集めたほどの量の包帯を両手に巻いている。


この人だ


比較的頻繁に喫煙所で一緒になるAさんは半分ほどの年齢の私に明るく丁寧に挨拶をしてくれる人だ。
特に会話をしたことがなく関わりもない私からすれば
当たり障りない柔和な人だと思っている。

当たり障りなく柔和な人にはイジりしろがない。
もしそのイジりしろがない人の怪我について私から話しかけるのであれば、それはひたすら退屈な会話になってしまう。
あらゆる人に退屈な話を切り出されている可能性も考えると迂闊に話しかけるべきでない。

例えば私の身長が197cmあった時、対面したほとんどの人に「背が高いですね。」「身長いくつあるんですか?」などと言われ続けるだろう。
耳にたこができている自分が見える。
そういった配慮を大事にしていきたい。

何しろ痛かっただろう。
私は世界中からかき集めたほどの量の包帯を両手に巻いた経験はない、考えただけでも意識が遠のいてくる。
その痛かった記憶を掘り起こすような無責任な声かけはできない。
そう葛藤している間にそのAさんは仕事に戻っていった。


これでいいんだ


もしAさんが私と同じ感覚を持った人間だった時、
コチラ側の人間だった時、アチラ側だと思われてしまうのは不本意に思う。
そのリスクを考慮して一切そのことに触れなかったのはきっと英断だ。
私には釣り針が大きすぎた。

こんな私をAさんはどう捉えているのか、Aさんがアチラ側(現時点ではおそらくそう)だった場合には
簡単にでも「大丈夫ですか?」などと声をかけるのが
一番丸い。

こうして完全にタイミングを逃してしまうのはもう
慣れっこなので、またいつかAさんの包帯が取れた時、満を持して声をかけようと思う。

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