ワイン農場
ちょっかいビーム!ちょっかいビーム!
小学校1年生から3年生の間を、きむちゃん、とりいくんと一緒に、
オテモトブラザーズという3人組のチームを組んで過ごしていた。
主な活動は、女子先輩への無駄な絡みと、放課後にする冒険ごっこだった。
家に帰るのが遅くても問題がないやつの寄せ集めだった。
僕の母は、新神戸の駅からバスで15分かかる
海星女子学院の事務員をしていた。通勤には1時間半ほどかかっていたと思われる。何しろ阪神淡路大震災の後で、仕事も生活も、何もかも精一杯な時分だったはずだ。震災の後は、県庁前駅の近くの下山手通り(うる覚え)にあった祖父の産婦人科のビルの地下1階から、母、兄、僕の3人は西神中央の近くの田舎町への引越しを余儀なくされた。そこは市営住宅と生活協同組合の店舗があるだけの本当に何もない場所だった。かーぶー(母親)が帰ってくるのが遅いのが常なので、僕やその友人(兄についてはよく覚えてないが、おそらく塾に無理やり連れて行かれ、集団行動と詰め込み式の勉強法が身に付かず精神が崩壊したいたと思われる。)は、いつも遅くまで外で遊んでいた。
生協の建物にあったゲームアーケードには、駄菓子屋と小学校低学年の自分らを寄せ付けないストリートファイターのゲーム機があった。きむちゃんととりいくんは、駄菓子屋で数回、万引きで注意をくらっていたらしい。
学校が終われば、近くのさくらんぼ幼稚園だか、なのはな学園だか、何か覚えていないが、そういった子どもたちの面倒を見る諸先輩がたがいてくれる施設に行っていたと思う。腕相撲で勝てなかった記憶や、初めてスピードというトランプのゲームに熱中したこと、野球選手のイチローの髪型を真似た一つ年上の人がいて、その人が空き地を丸々一つ消失させてしまった事件で僕まで消防署に呼び出しをくらったことは覚えている。もしかしたら、その時に”ブチュチュンパ”と呼ばれていた施設の教祖のディープキス(罰)をくらっていたかもしれない。学童が何か失態を犯した際に、親御さんを呼び出しての超ロングタイムな説教の後に思いっきりビンタをし、さらにディープキスをかます”ブチュチュンパ”については、兄も知っていたので、兄も同じ事件に絡んでいたのか、そうでなかったにしろ、その施設の教祖は人の芯に残る衝撃を持ち合わせた人であるに違いない。
小学校3年生(次の学校へ転校することが決まっていた年)、
家の鍵を忘れたことに気づいて、
そのまま外をふらつき、夜の小学校の中に忍び込んだ。
教室のドアは閉まっていたが、ドアの上にある小さい窓は鍵がかかっておらず、その小さい窓から教室内に入り込んで、鍵が入っているであろう自分の机の中を探そうと思った。小さい窓から入る際に、見事に地面に落ち、その時の大きな音で管理人に見つかってしまい、かーぶーにも報告された。
かーぶーには何も怒られなかった。鍵を忘れた自分が悪いということは明らかだったし、家に帰ってくるのが遅いことは、それが当然だと思っていた。
母親は父親なしで一人で兄と僕を育てているし、週末に会う祖父や祖母は、
離婚した母親のことをどう思っているのかは分からないが、そばにいてやってる。兄は常に何か精神的な部分で闇に連れて行かれていると感じる時もあれば、ゲームに夢中でその時は同じ年代の人員で構成されたオテモトブラザーズの一員であるかと感じる時もあった。そういう家族だった。
家族旅行のことは、記憶が薄れつつあるが、いくつかは覚えていて、
いくつかは写真でしか確認できず、
そしていくつかは本当にあったかどうか、
思い出の中でも淡くなってしまっている。
寝台列車で北海道まで旅行した時のことは、
まだこの記憶の中に残っている。
常に動く見たことない景色に、兄弟はずっと騒いでいただろうし、
列車の中には、映画車両や展望デッキがあり、歩き回っていた。
疲れた頃には青函トンネルを抜け始め、あっという間に
札幌駅(函館は帰りしによったので、おそらくこの駅)に到着した。
その日、家族でもののけ姫を映画館で観た。
チケットが間に合わなかったのか、僕一人だけが別の席に座らされていた。
「小さい子どもにそういうことをさせる」という認識すらない家族だと思う。第一優先は、家族全員がその場で同じ体験をしていればいいのだろう。
だが僕は我慢できない小便のせいで途中何回も上映を見逃してしまい、
なんだかぐちょぐちょした薄気味悪い映画としか印象に残っていなかった。
その後は、居酒屋にいった…かもしれない。
かーぶーの、"社会人っぽい"、”働いている人っぽい”、
そんな一面を見た覚えがある。居酒屋ではおそらく上司を盛り上げる
女社員の役回りであったに違いなかった。
次の日は、富良野へ電車で向かった。
パックンチョを狐にあげた。
慣れない義務教育の現場と、震災の後で大人たちの精神状態も危うい中、
本人が「きつい」と言っていたであろう塾の現場で受けたダメージが、
北海道の土地で癒されていっているのはそれとなく分かった。
兄とのいざこざ(よくある喧嘩)は、
小学校5年時に僕が初めて反抗したことによって終焉した。
富良野の後は、旭川に行った。
もはや、この街に辿り着く頃には、どのような手段を使ったのかは
もはや分からない。電車に乗る、と言った行為すら珍しいのだから、
理解して記憶すると言ったことができない。旭川では、動物園を楽しんだ。
その街で覚えているのは、電車の模型が店内を走るレストランでご飯を食べたことと、旭川動物園の記念硬貨を手に入れたことだ。
僕の手元には、2つの硬貨があった。
一つ目は旭川動物園の記念硬貨。
二つ目は長野オリンピックの五百円の記念硬貨。
この二つ目の硬貨も、北海道旅行で手に入れたと思う。
旅行から帰って幾日か、
オテモトブラザーズは遭難し、夕方になっても森から抜け出せずにいた。
夜になる、ほんの少し前になんとか人気を感じるところに出たと思うと、
そこはワイン農場だった。西神中央駅から、僕の住んでいた市営住宅の間にあるワイン農場、一度も行ったことはなかったが、それとなく分かった。
きむちゃんと、とりいくんに別れを告げ、僕はバス停に向かった。
「500円玉あるから、俺は先に家にバスで帰るわ。」
そうして乗ったバスに、偶然、かーぶーが乗り合わせていた。
田舎のバスなので本数は少ないし、夜遅い時間なので、乗る可能性は確かにあった。しかし、そんなところで泥まみれの自分と母親がばったり会うとは思っていなかった。500円玉は運賃代に使われることなく、おそらく、幸せに、母親と一緒に家に帰った。何があったか聞かれても、
山で遊んでいたらここまで来たと言っただけだ。
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