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37コ上の偉大な兄弟

12/7、肋骨蜜柑同好会の「2020」を見てきた。
感想というより思ったこと考えたことのメモなのだけど、まとまる気配もないので忘れる前に、まとまらないままに適当に記録しておこうと思う。

・ギリギリまで劇場に行くか配信で見るか迷った結果、当日券で入った。
前2列はフェイスシールド着用とのことで少しだけ躊躇ったけれど、席においてあったのはメガネ型のものだった。
使ったことがある人はわかるだろうけれど、10枚入り千円でよく売っているクリアファイルにゴムバンド付けただけみたいなアレは、耳まで覆われてしまうので、観劇用途にはほんとうに最悪なのです。
その点メガネ型は耳が空くので、顔面を守った上で音の奥行きを8割くらい感じられる。
ただ、マスクが白だったので、後ろの人にはフィルムに写り込んで見えていたかもしれない。
新宿に行くにはサージカルマスクの安心を持っていたかったんだ。許してくれ。

予約、決済、グッズ購入のシステムは無発声、非接触をどこまで徹底できるか追求していてとても興味深かった。
昨今、来場者の名前や連絡先などを控えなければならなくなってしまったけれど、あらかじめ予約時に情報を入力したQRコードを提示するというのは、システムと機械さえあれば人的、物的にもとてつもなく手軽だ。
それに小劇場の規模でクレジットカードとsuica両方を使えるようになっているところはあまり見たことがなかったし、グッズ購入も新千歳空港の寿司屋みたいに、伝票に欲しい物の点数を書いて渡す形式だった。
まぁ、当日券現金精算だったので、それらの恩恵にはまったく預かれなかったのだけど。

開演前の前説では蓋付き飲み物OK以外はほとんどいつも通りの内容がアナウンスされていたけれども、携帯は電源からオフ、というところだけは少し引っかかった。某アプリが使用できなくなるからだ。
とはいえ服薬などのアラーム解除し忘や電話がかかってきてしまうケースは何度も出くわしているし、振動しない設定だとか機内モード+Blutoothだとか、そういう煩雑な設定を誰もがサクッと行えるわけではない。となると、一律で根本から断ってしまう他ない。私も主催者側だったら同じことをするだろう。
などと書いてみたものの、感染症対策に対する考えは人によって違うし、そもそも政府謹製アプリに期待していないから端から捨てているという可能性もある。
まぁそんなこと言っている私も、例のアプリの効果には微塵も期待してないのだけど。

・題材について。
ディストピア文学の名作として知られる「1984」を下敷きにしていることはメインビジュアル公開の時点で薄々感づいていたし、タイミング的にも(わたしたちの暮らす)現代日本のエッセンスが投入、あるいは現代日本という条件で1984が行われるであろうことも想像ができた。
内容も1984をなぞったかのような展開が多く、これでは現代版に翻案しただけではないか、と考える人もいるのだろうけれど、これでいい、というよりも、意図してこうなるべく作られているのだと思った。

1984に類似した展開、ということがそもそも作家の意図したところであって、「2020年の日本」の舞台設定で極端に全体主義的、社会主義的になった共同体が1984と同じ破綻の仕方をしていく(カルト宗教としてイメージされやすい同じ服装、共同生活、食事の配給、独自言語による思考の簡略化、性暴力、粛清など)。
そしてそれらはオウム真理教などが辿ってきた道にも類似していて、過去だけでなく、現代日本の社会が抱える病理もその中に絡め取られていく。
1984が様々な国で受け入れられ、ディストピア文学というジャンルが存在するように、行き過ぎた全体主義は1984的、カルト的な要素を孕むということでもあるのだろう。
そしてそれは、今やフィクションの上の話でもなくなってきている。
他人事じゃないことを他人事として見せられることで、救済される不安もあるんだ。

・クロミのあのメタ的な立ち位置は一見、傍観者故の愉悦を観客と共有するポジションのようだけれども、既製作品を元にした新作戯曲として見ると、ベースとなるものとは別の作品と分かっていながらも「お?これは101号室来るか?」という1984的展開を期待する観客を体現する役割でもあったように思う。

作家が1984やオウム事件などを知り作品の糧としたように、この「2020」が上演され、記憶され、500円で見にきた中高生から、いつか何か作品を生み出す際に思い出して欲しいという願いが込められているようにも思えた。
あの自由な立ち位置には。

脚本上ではクロミが傍観者であり物語の受け手として描かれているけど、実際は舞台から見た「絵の中」にいる我々がパンフレットに書かれた最後の出演者で、2020はそこに届くことで初めて作品としての完成を迎える。
COVIDが流行していない世界の彼らから見れば、こちらが絵に描いたフィクションの存在で、クロミはその両方に位置している存在なのかもしれない。
丁度本編でも、「試演会ってほんとうに客来てたのか?」「上演されたのか?」みたいな話になっていたし。
あの世界で2020が完成していないのって、作家が云々とかじゃなくって「観客」というものが存在しないから「上演」が完成しないんじゃない?

・平田は当初「取材のために身を置いてみる」と言っていたが、終盤では気づくと「もう会社には戻らない、ここにいる」といったことを言うようになっている。
彼が取材と関係なく留まることを選んだ理由は、自分のやりたいことを評価してくれることや、迎合しないものが目の前で脅され粛清されたことなどが影響しているのかなーと想像することもできるけれども、明確にこうだ、ということまでは示されていなかったように思う。

カフェ店員のクロミは何度も「見るのが好きだ」ということを言っていた。このことから傍観者の特権として人の業を見て悦に浸る、というポジションだという感想が見られたが、平田の場合はそれと少し違くて、集団(に所属していること)を守るために常軌を逸した行動をとる人の姿を楽しんでいるのではないかと思った。
平田はポイ捨てを咎めるためにわざわざ哲学者の名前を出すような面倒くさい人物だけれども、「普通になれ」「変わっている」と言われ続けた彼にとって、普通の人というのは代わり映えもせず、欲も見せず、面白みのない存在だったのかもしれない。
仮にそうだったとして、彼にとって誰が一番興味深い存在だったのだろう。
人生を振り返ると、わざわざ相手を怒らせたり、異性に意識させたり、といったことを楽しむような人が何人かいた。
彼らも理性や論理の先にある、泥に埋まった人間性の熱を見たがっていたのだろうか。だとしたら、鬼女速報やvipまとめの類をヒエ~ッとか言いながら面白がって読んでいた私と大差ないのだろうな。

・彼らは恐怖によって隷属を強いられ、マスクによって表情が隠れることや、言葉が破壊されること、さまざまな「推奨もされていないこと」で相互の意思疎通を阻害されている。
「ダメ出し」「卒業」「個人レッスン」などの言葉で既存の概念を置き換えて表現することも、その一環だ。
それは作中で演劇とカルト的要素とにまたがって使われている言葉ではあるけれど、妖怪のそれのような事象や概念に対する名付けとは違い、既存の言語を破壊して脳内から語彙を奪い去る行為だ。
ドイツ語を話せない人がドイツ語で考えることができないように、語彙の破壊は思考を狭めることに直結する。
1984年に出てくる「ニュースピーク」は複数の言葉を一つにまとめるといったやり方でそれを行っていたが、本作ではそれを演劇の用語と接続することで、演劇や芸術に向けられる偏見を、落伍者への蔑視を自虐的に扱う試みとしていた。
「卒業」「個人レッスン」などは演劇というよりも芸能、アイドルなどの分野の言葉だけれども、大多数の人にとって演劇も芸能もアイドルもテレビも大差ないからこそ、より酷いことをイメージしやすい露悪的な、ゴシップ的な言葉の選択なのだろう。
「降板」や「抜き稽古」ではイメージしにくいという理由もあったのかもしれないけれど、演劇ムラと呼ばれてしまうこと、そういう行いや態度、慣習に対する彼なりの皮肉なのだろう。

・ド頭「あぁ、」と言って始まったときはそれだけで震えた。
あぁ、は音ではあるが、日本語に限った発音ではない。
小鳥遊の独白で語られる「阿吽」は宇宙の始まりから終わりまでを表す仏教の真言の一つで、日本では阿吽の呼吸という以心伝心を表す慣用句として使われることがほとんどだ。
字幕で何度かヒンディー語文字が添えられていたのは、慣用句ではなく原典の方の意味で捉えられるように、ってことなのだろうか。

小鳥遊の独白によって「愛し合う二人が言葉を奪われ互いを裏切った負い目から引き裂かれる」前の心のつながりを回顧してのあうん、というイメージがあるが、二人のキスがそれだったのではないかと思った。
キスは何にも阻まれずに口同士が接触するから、ちょうど一から了まで(あ、からうん、まで)ということになる。
声は空気の振動で、マスクによって声が籠もるのは、その振動が布地に吸収されてしまうからだ。口元が見えないと、その動きで言っていることを推察することもできなくなる。

あの瞬間の二人の間に嘘はなかったのかもしれないけれど、
その直後に二人共急いでうがいを始めたのは結局のところ刷り込まれた価値観による受容の拒否で、それはコメディの要素ではなく、破滅の示唆に見えた。

二人は最後に「あ、うん」で繋がるけれども、それは互いを裏切ったと知ってしまった後のことで、互いのことを隠さず知りすぎた故の絶望、なのかもしれない。
どんなに愛し合っていても所詮は他人だしね。知らなくていいことくらいある。

・個人レッスンに行くくだりは朱里さんが可哀想すぎてブチ切れていた。完全に個人的な地雷。
ああいうトップによる強姦って、特にカルトものではよく見る描写ではあるのだけど、本作におけるそれは「才能がない」鉄男にとっては現実逃避でもあり自分の力の確認のプロセスでもあり、もはや欲望による搾取ではなく、行為そのものへの依存だったのだと思う。自分の価値や権力を確認するための性依存。
だから朱里さんは怒りではなく「助けて」と言ったのだと思う。

・各々の自我が規範に抵抗しているさまが描かれていたけれど、矢部だけは「うまく」それと共存していたように思えた。
可哀想だけどこっちも食わないと死んじゃうからさ、と鶏を絞めるような感じ。多分感覚としてはそんな感じなんだと思う。
卒業させてやる、生まれ変わったら演劇なんか無縁でいろよ、というのはもう演劇なしでは生きられなくなってしまった同類に宛てた言葉なのだろうな。
演劇以外にも幸せになる道を見つけるか、演劇や芸術や文学をやっていることで蔑まれたり笑われたりすることのない世界(社会)に生まれるといい。

長いアレを引っ張り出したときに小指をひっかけてS字にしていたのは素晴らしかった。
あいつらは掴むと体を捩らせて抵抗することもあるけど、アレなら角度が変わると動いているように見えるし、最初にそう見せておけばリアリティを保ったまま演技に集中できる。抜きどころが完璧で少なくとも私だけは拍手喝采でした。

・大泉薔薇彦、作中の発言から察するに、オネエ言葉なのはLGBTに理解あるよ!というポーズなのではないだろうか。
そういったものがあるということは多分、あの世界は限りなく僕らの生きているところと地続きなのだと思う。

12/9 4:39
一旦ここまで。思い出したら追記するかも。
12/10
俺俺俺ってうるさいので削った。

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