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『現代思想入門』を読む前に、今までの現代思想との付き合い方を振り返る【読書前記録】

ちょうど先日、千葉雅也さんの「現代思想入門」が発売された。

本を読む前に、自分がどうしてその本を読むのか?ということを教えてくれたのは、メンタリストDaigo の「知識を操る超読書術」だった。

「どうしてこの本を読もうと思ったのか?」「この本に何を期待している?」「この本を読んでどんなふうに感じた?」など、本を読みながら「しつもん」を行うことで本の中に書いてある知識を自分の血肉にすることが出来る、と書いてありました。現在もその習慣を継続している、という訳です。
(今読書術の本を読み返してみたら、また見方も変わるのかもしれません)


現代思想への邂逅を振り返る- どうしてこの本を読もうと思ったのか?

私の現代思想への邂逅はいつだったか。


一番最初は確か、これも同じ千葉さんが書いた「勉強の哲学 来たるべきバカのために」だった気がする。最も、その本の考えがドゥルーズ・ガタリの哲学を参考にして描かれていると知ったのはつい最近のことなのだが。

その次に「ポスト構造主義」の哲学者について目にしたのは、飲茶さんが書いた「14歳からの哲学」だった気がする。


この辺りから、「答えを求める思考」をすることがだんだんと減っていった印象がある。


むしろ

「答えなんてどうせ無いんだよ。その中で探し続けるしか無いのさ」

と、一部諦めの気持ちさえ混じっているような。もう少し試行錯誤が必要なのだろう。


そうそう、千葉さんが書いた「動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」も少し触った気がする。確か2021年の8月だったか。

ひとつの書物に脱稿の決定をすることは、様々なバランスを考慮した上であるにしても、非意味的切断である。(中略)非意味的切断が、日常の毎瞬間であることを露呈させるのである。(中略) 意志的な決定でもなく、周到な「マス・コントロール」でもなく、私たちの有限性による非意味的切断が、新しい出来事のトリガーになる

千葉雅也, 2017年, 「動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」,河出書房新社, p38

何か確固たるモノに基づいて決断している気がしてるかもしれないけど、そんなことないのさ。「なんとなく」何だよぉ!、というのがすごく印象に残っている。



その次が、「暇と退屈の倫理学」である。2022年3月の話。その中ではボードリヤールの「記号消費」の話が引用されていた。

この本自体の存在は、1年前から知っていたが、どうも手に取るまでに至らず。最近になってようやく読むことが出来た。理由としては恐怖心の占めるところが大きい。

「暇と退屈の倫理学」に自分の「暇」が解き明かされてしまったら、それこそ生きる理由が無くなりそうな気がしたのだ。

括弧つけて言えば、「罪の意識という呪縛に生かされていた」のだと思う。自分が唯一信じることの出来る神様。確認してしまえばまた次の問いが生まれてくるにも関わらず、それを確認することをせずに、いつまでも同じ問いに向かいつづける。

浅野いにお、2009, 「おやすみプンプン」, 4巻, ヤングサンデーコミックス, P87-88
浅野いにお、2009, 「おやすみプンプン」, 4巻, ヤングサンデーコミックス, P89-90

最もその思考は、本当にその問いを解決したいのではなく、その問いについて考えることで時間を使うことが出来る。それを考えている間だけは、生きる意味を見いだせる、と言うことも出来るだろう

おやすみプンプンだけでなく、暇と退屈の倫理学にもこのことが言及されている。
つまり、悩んでいる人はその悩みを解決したいのではなく、悩みを解決するために悩むことで暇をなくしているのだ、というもの。



話は少し変わる。

14歳の哲学を読んだ頃だったか、2021年の4月ごろ。早起きして、そのBGM代わりとして「変なおっさんが酒のんでダラダラしゃべる配信」を見ていた。

その辺りから「切り抜き」の存在も知ることになる。

同時に、その動画の「なんとも言えない心地よさ」に気持ち悪さを感じる。そして、どうしてその動画を自分は見続けるのか。どうして癖になるのか、と考えた。

14歳からの哲学を読んで少しイキっていた自分は

「そうか、自分がよくわからずにもやもやしていることに対して、『その答えは〇〇だよ』と言い切ってくれることは、こんなにも気持ちが良いものなのか」

と考えたようである。当時21歳。



「人それぞれ」という言葉が嫌いと言っている友人が居た。

その人の影響で自分もその言葉をすごく嫌いになった。考えることを放棄しているような気がして。

最近この言葉をあまり使わないなと思っていたが、どうやら

「答えなんかねーよ(ひとそれぞれなんだから)」

に変わっていたらしい。

確かに、明確な答えは無い。万人が納得できる回答を提示することは難しいし、、、というかそもそも万人を納得させる必要があるのか?ということを先に考えた方が良いだろう。

言葉を選ばずに言えば、自分が納得できていれば、それで良い。自分の言動・行動の責任は自分で取るようにするのだ。これは独断で行けとか、周りに合わせるなとかそういう思考ではない。

周りに合わせた結果失敗したとしても、その時に「他人に合わせる選択をした自分を責める」とかいう行動をするな。自分が選択した道を進んで失敗した時にちゃんと自分を責めなさい、という話。



それが分かるように、自分がどうしてそれに納得したのかを、何らかの形で残すのだ。後で取り出し可能な形で。
その手段としてObsidian がある、Notionがある。Dynalist がある。

2年前、読書術を手に取った時のNotion 
Dynalistでの読書ログ。Created time がわからないので余り使わなくなった。


1年前、14歳からの哲学入門を手に取った時のDaily notes 

文章として残っているおかげで、こうして2年前からのことを振り返りながらNoteが書けている。高校生までの自分には無かったことだろう。



この本に何を期待しているのか?

期待、というとなんだかすごく上から目線な様に感じてしまうが、それは言葉の綾だろう。気にしない。

これまでにも書いてきた様に、何か一冊本を読んで、

バチぃン❗❗❗人生の答えはこれだったァァ❗❗❗」

となることはまぁない。そんなことがあるなら、それはその人の人生がそれくらいの薄さだった、ということなのだろう(と誰かが言っていた)。

人生が変わることはないが、人生のマインドセットは変わることがあるのだと思う。

つまり何かの本を読んで、今まで自分の中でモヤモヤしていたものがスーーーーー、っと整理される。その結果、今まで気がついていなかった新しい問いに挑むことが許される、ということ。

主観では「本を読んで人生が変わった」様に感じるかもしれない。

最近だと「暇と退屈の倫理学」を読んだときに、このような感触を味わった。


世界は変わらない。朝になれば日が昇るし、9時には実習がスタートするし、12時になったら昼ごはんを食べるし、18時には実習が終わって風呂に入り、食事を取る。

しかし、その1つ1つの物事に対する捉え方はいくらでも変化し得るのだ。

Amazon「現代思想入門」(講談社, 千葉雅也)本書の内容 より

勉強の哲学でドゥルーズを知り、14歳からの哲学入門でデリダを知る、ボードリヤールを知る。そしてその度に、世界の見え方が変わってきた。

千葉さんの語り口が好きなのかもしれない。そんな人が語る現代思想を知ることで、次はどんなふうに世界の見え方が変わるのだろう。

と、この本に期待している。

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では。

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