見出し画像

「来年の目標」のために今、何をしているか?- 生殺与奪の権を正月に握らせるな、決断の主体は自分であれ。

後2時間ほどしたら2021年が終わります。

まずは落合陽一さんの #日々短文雑記 からの引用。

“学生の面接をするときによく聞くことがある.君は何をやりたいの? というやつだ.

「コンピュータで作品を作りたいです」とか「研究がしてみたいです」

というのが返ってくることが多いのだけれど,今ならやってみればいいんじゃないかなぁ,ということが非常に多い.というよりは,なぜ今君は作品を作ってないの? なぜ今研究していないの? ということをよく聞く.

興味があることは興味がある時点でやっている.やらないことは興味がないことだ.自分はそう思っている.もちろんとんでもなく締切に追われているとか,スケジュールがいっぱいだとかすることがあれば一旦タスクの消化を待つか,全部ぶっちぎってやるか,くらいしかない.”

「今年の目標」「来年の目標」を決めることに意味があるのだろうか、と常に考える。そこで今回は、課題の分離をしてみたいと思う。

先に引用した落合のノリを持ってくると、こうなる。


「来年は早寝早起きをしよう」「来年はしっかり勉強しよう」

そして問う。

「じゃあ今日早く寝ないの?」「今はどんな勉強をしているの?」と。


やりたいと思っていることは、考えた時点でやっている。やらないということは、興味が無いことだと落合は言う。


つまり、

興味がある&やる
興味が無い&やらない

ということだ。


ここには実はもう2つ、隠れた領域がある。

興味がある& やらない
興味が無い&やる

1つの図にすると、こうなる。

※今回は「興味→行動」という方向で考えている。「行動→興味」もあるが一旦省略。①→②の順で考える。


落合さんの記事で紹介されているのは、この網掛けの部分。


そして右上の「興味がある&行動しない」が


もちろんとんでもなく締切に追われているとか,スケジュールがいっぱいだとかすることがあれば一旦タスクの消化を待つか,全部ぶっちぎってやるか,くらいしかない.

に表現されている。

左下の部分は外部から強制的にやらされることが該当するだろう。
勿論これ言い始めたらきりがない。
例えば納税とか、大学のテスト勉強とかが想像しやすいが、これも特定の文脈に立った時に「やらなくてはならない」であるのだ。

どんな状況でもやらなくてはならないこと」というのは意外と少ない。

強いて言うなら、「生きる」とかかな。いやこれマジ大事。


自分が興味があることに時間を使う。

度々言われるんですが、よく考えたら「自分の興味があること」ってなんだ?とかなるわけです。

「自分がやりたい」じゃなくて、「自分が所属する組織ではやることが良いとされる」になっている可能性もある。



私は普段1人暮らしをしていて、年末正月くらいしか実家に帰る機会が無いのです。

下宿にはテレビも無く、自分で見るYouTube とかSNS以外の情報は入ってこない状況。

実家に帰って一番驚くのは、本当に「四六時中」テレビが付いているということ。


実家Dis をしたくてこんなことを書いているのではない。

今の自分はテレビから背を向け、ヘッドホンをして過ごしている。

「正月になったから太った」「正月だから勉強できなかった」「正月だから生活リズムが狂った」???

”正月”という、国民の大半がおやすみ気分になっている状況で、ついつい正月を理由にしてかまけたいのも分かる。

正月だろうとクリスマスだろうとハロウィンだろうと海の日だろうと、「だから〇〇」ということは無い。そのイベントに責任を肩代わりさせている、ただそれだけだ。

『フラジャイル 病理医岸京一郎の所見』という漫画には、しばしば「結果・診断への責任」という概念が登場する。
病理医は物語の中で、「患者の命を背負う重責に、単身向き合うポジション」として登場する。

あの人もこう言ったから大丈夫ってな
他人の命みたいなもん 医者はてめぇで責任取れねえんだからさ 
不安と戦ってなきゃならない

後押しなんかしてさ それを放棄させるようなことちゃいかんだろ

フラジャイル 病理医岸京一郎の所見 第2巻 p171

結果を背負うためには自分で選ばなきゃならない
あとで後悔しないために 選ぶ勇気が必要なんです

フラジャイル 病理医岸京一郎の所見 第7巻 p38


これは病理医に限った話じゃないよな、と感じるのだ。

「興味あるな」と思ったことをやるときには、自分で決断する。

「正月だけど規則正しい生活しなきゃ」と、自分で決断する。

その決断を他者に委ねた途端、後悔の選択肢が浮上してくるのだ。


今この瞬間から、変われる。



最後に、高浜虚子の俳句を引用。

去年今年 貫く棒の 如きもの

時間をどう区切って呼ぼうとも、ときの流れは1本の芯棒のようなもの。


来年度も刺激を与え合う一年になりますように。


P.S. 




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?