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”臨床参加型実習” の本質は内視鏡手技に難重する指導医を見学する時の、複雑な雰囲気に宿る

臨床実習というやつは、その科の先生がどんな仕事をしているのか、ということを知る良い場所なのだろう、と思う。

今日は、「それをどれくらい深いレベルで見るか?」という話です。

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例えば消化器内科って何してるの?と聞かれた時に「消化器の病気を見ているよ」と話をすることは非常に簡単ですよね。
猿はできないが、医学生であれば大体がそう言えるでしょう。


実際に仕事をしてみると、泥臭い部分がたくさんあるんじゃないかな?と思うのです。


例えば消化器内科であれば、腸管が狭窄していて内視鏡が先に進まない、位置関係が分からなくなる、操作がうまくいかない、、

この辺りの悩みは「大変だけどそれが仕事だからね」と言われてしまったらそれまでの話。

じゃあその「先生がめちゃめちゃ困っている所」を、臨床実習で来ている学生が見る必要があるか?と言われれば、難しい所だろうと思う。


消化器内科の道に進んだならば、内視鏡の操作に苦労する、腸管を進めるのに苦労する、というのは一部洗礼のようなものなのかもしれない。

故に、「内視鏡手技の熟練がしんどいので、消化器内科になるのは嫌です」という意見は、消化器内科の人の頭の中には無い可能性だってある。「医学の勉強が大変だからやりたくないけど医者になりたい」が通用しないのと同じノリ(違う?)

それ(=内視鏡手技)は「できて当たり前」であり、できない場合は「練習して?」になるからだ。


何だってはじめから出来る人は居ない。向き不向きはあるかもしれないが、最終的には経験を積めば、それなりのモノになるだろう。
故に個人的な意見を言わせてもらえば、「慣れ」でなんとかなりそうなことは理由にはならない、と考えている。


話を戻そう。

これを言っては元も子もないが、臨床実習でそのような手技を見学することは、私に今現在、これまでのような思考を考えさせるという点で非常に有用だったなと感じる。


眼の前で先生が「あぁ、この狭窄の部分カメラ全然入らねぇ…」とぼやいているところを見る体験というのは、臨床の裏の部分である。表舞台にはなかなか上がってこない。


人は美しい話を好む。

「内視鏡をスイスイと進めて閉塞を解除、粘膜剥離、病変部位の探索をして、病気を治す」という表現も嘘ではない。


しかしその裏には、「入らねぇ‥」「カメラどこにあるんだ?」「狭窄してると内視鏡全然入らないっすね😥」
という苦労があったことを、忘れてはならないと思っている。

先生が困っていて、学生は何もできずひたすら暇な時間を過ごす、という検査の見学も、その点では価値があるのだろう。



これまで私は、臨床実習といえば「それまでに自分が得てきた知識を生きたモノにする場所」だとと思ってきた。
それまで教科書の上で、本当に効くのかこれ???と疑問に思ってきたようなことが眼の前で繰り広げられる。

腹腔鏡でメッシュを敷いてヘルニアを治し、腸管を切離して狭窄を治しているのだ。白血病患者に対して抗がん剤を投与すると本当に毛が抜けるし、白血球が0になるのだ。

それまで自分が学んできたことの答え合わせをするような感覚があり、非常に気持が良い。


医学部はその学部の特性として、

医学部を卒業した人の大半は医師になる

ということがある(他には法学部もこの特性があるかもしれないが)


その点から見ると、臨床実習とは将来自分が働く可能性がある職場の、インターン的側面を含んでいる。


一般的な「お医者さん」を超えた、現実の医者を見ることで将来のキャリアを考えていく、そんな期間が臨床実習なのかもしれない。

泥臭い部分も、甘んじて見学していきたい。

では。




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