山奥で何かを信じるだけの生活を送ったらどうなるんだろう

最近思うことがある。

「今の私が山奥に隠居して何かしらの宗教に入信したら何を考えるようになるんだろう」

これを母親に言ってみたら、「大丈夫?」と心配されたが、別に病んでいるわけではない。ふと思いついただけの単純な興味だ。

私はずっと信教とはほぼ無縁の人生を送っていて、最後に信じられるのは自分だと思って生きている。
自分なりの信念があるからこそ、何か一つだけを信じることができないんだと思う。

そんな私が、一つの確立した理念だけを信じなければならない環境に放り込まれたらどうなるんだろう。

心から信じるようになるのか、今までと変わらないのか、それとも新しい理念を生み出すのか。

予想では、何だかんだ納得して信じるようになる気がする。自らが最も快適で穏やかでいられるような選択をするのではないだろうか。

高校時代も学校の方針が「国公立大学進学!!」とほぼ宗教みたいな考えだったけれど、全く疑わなかったから。


でも今の私がやったら、また違うのかな。
実験してみたいな〜。

「何かを信じる」という行動はとても興味深い。

今の私は現実的に考えて絶対やらないけれど、いつか歳をとったら山奥で実験してみるのもいいな。

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