喫茶店の紫煙は私を現実の隅へと追いやる



気だるげな平日午後の喫茶店。
仕事はできそうだが無愛想な眼鏡をかけたポニーテールの女性と、いかにも大学生っぽい可憐な女の子の店員。

今日は休日。勉強しようと思い、インスタグラムで検索して一番上に出てきた近所の喫茶店に足を運んだ。
15:30。先客は、3名の男性客。

メニューを見れば、あまりにも多い品数に驚く。全日本優柔不断選手権優勝候補の私への挑戦状である。
ギリギリランチタイムではあったためランチセットにしようとしたが、いざ店員さんが来ると私は全く考えていなかった「パニーニセット」を注文していた。
これはよくある現象である。突然全く違うものを注文してしまう癖。何故かと問われても何故だか分からない。1人が好きなくせに、ひとりだとやけに注文に緊張してしまうのは20歳を超えても治らない。

出てきたのは、パニーニという名の厚切りトーストサンドだった。
給食に出てきたような緑色のプラスチックのお盆に乗って出てくる。
ツナとタマゴのパニーニ(サンドウィッチ)に、パンの耳まで乗っている。
黒色のコーヒーは静かに揺らめき、別皿に乗ったふわふわのホイップクリームは白く輝く。お盆の真ん中に配置された皮付きフライドポテトは振りかけられた塩でお茶目に化粧をしていた。
ひと口食べれば、このトーストサンドは美味しかった。焼き目が綺麗についたパリッとした厚切りトースト。モチモチとしたパンに、ちょうどいい塩分のツナマヨとタマゴが合う。
突然メニューを変えるのも悪くないか、と自分で自分を肯定してやる。私はいつだって自分に甘いのだ。

隣でタバコを吸うサラリーマン。2つ奥の席では何か電話をする太った男性。目の先にはランチにがっつくこれまたサラリーマン。
BGMも何も無い、ただカチャリと食器が擦れる音だけが響くこの店。穏やかな時間が流れている。
店員は暇を持て余しているのか、それとも仕事熱心なのか、修学旅行の見回りの担任のように店の中を歩く。食べ終えた食器を目ざとく見つけ、すぐに下げる姿はプロであった。

隣の客の副流煙とともに剥がれ落ちそうなポスターを眺めながらぼうっとする。
私はタバコが好きではない。特に子供の頃は大嫌いで、タバコをやめない父に向かって「そんなんじゃ葬式に出ないからね!?」と叫んで父を泣かしかけたことがある。中学生の私は青かった。大人になるとタバコに触れることも多くなり、昔ほど毛嫌いはしなくなった。そういえば先日、父が気に入っている銘柄を聞いた。子供の頃、死ぬまでタバコを咥えないと誓ったけれども、今なんかふとその誓いを変更した。私が人生で一度タバコを咥えるのは、父が死んだ日にしようと思う。

話がズレてしまった。普段考えないことを思考してしまうのは、この店の魔法に取り憑かれているからだろうか。

パニーニを食べ終え、お盆にはトーストの屑と大きめのパセリだけが残るポテトの皿が乗る。ポニーテールの店員はやはり目ざとく私の食後の残骸を見つけ、悠々と裏に下げていった。

店内の白い壁には、茶色の八角形の時計が掛かっている。あまりにも古くて止まっているのかと思われたが、よく見れば静かに時を刻んでいた。長い時に渡って役目をきっちりと果たす時計の下で、私はただただ呼吸だけをする。

大学生の頃からだろうか。ブラックコーヒーを不味いと思わなくなったのは。口の中に残る香りと苦味の違和感は、ただ心を落ち着けるものになった。家で淹れたものでは出ないこの心地良さを私は噛み締める。

3つ奥の席に、学生らしきカップルがやってきた。彼らは小さな声で楽しそうに2人の時を楽しんでいる。彼らの世界には彼らしかいない。そう見えて、なんだかとても愛おしかった。エモーショナルでレトロでクラシック。きっと彼らの目にはこの店はそんな風に写っているに違いない。その頃には、気だるげなサラリーマンたちは店を後にしていた。

1周回ってインスタグラムで華やぐこの世界には、様々な客がやってくる。ミニーマウスのようなリボンを髪の毛につけ、岡本太郎作品のような色合いのタンクトップの上に肩出しのTシャツを着ている女性。デパコスらしきショッパーを手に提げて高いヒールでやって来た。そのハートのイヤリングが小さく揺れる。私は彼女がどのようなSNSアカウントを持つのだろうかという妄想をする。極彩色で統一されたアカウントだろうか。服飾のアカウントかも。友人とのプリクラをアップしがちな人かも。それとも、意外とカメラが好きで風景をアップしていたりして。

はてさて、実に無駄な時間だ。そんな時間をなんだかんだ噛み締めてしまうのだから、私は実に幸せな自己陶酔野郎だと思う。勉強しようと思い喫茶店に来たのに、気づけば何の生産性もないこの文章を書いている。

書いているうちに、息子に店をおすすめしてもらったらしいおばさん2人組が斜め前に座っていた。歌舞伎の話、そして今は糖尿病の話をしている。
こないだ安住アナウンサーのラジオで歳をとってモテるのは良い病院を知っている人間だと聞いた。そういえばうちのおばあちゃんもよく病院の話をしている。そのモテる話は本当かもしれない。

机上のコーヒーは冷めていく。カップルは二人の世界を連れて店を出ていった。隣の客はまたタバコに火をつけた。立ち上る紫煙は、私をさらに現実の隅の方に飛ばしていく。電波が弱くWiFiもないこの店で、気づけば私は1時間半を消費していた。

勉強は、ひとつも終わっていない。

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