人と違うことはおもろいことだと思う

高校生になって、不思議な友達ができた。
教室の隅で本を読んでいるような静かな子。
彼女は、とても「変」だった。

例えば、一緒に帰っている間に「充電が切れた」と言って急に一言も喋らなくなるのだ。何かを問いかけても反応がない。
私はそんな風にいろんな出来事が起きるのが面白くて、毎日一緒に帰るのを楽しみにしていた。

毎日一緒に帰ると卑屈になりがちなことが分かり、勝手にこの子に友達を増やそうとお節介を焼いた。
と言っても彼女の教室に遊びに行って、こんなにおもろい子なんだぜ!と話すくらいだが。

そしたら、少しばかり彼女には友達が増えた。
私は卒業式の彼女の笑顔が忘れられない。
彼女は私の元に駆け寄り、「こんなにアルバムに沢山優しいメッセージ書いてあるの初めてだよ…」と喜んでいた。聞けば、中学までのアルバムの寄せ書きは悪口で溢れかえっていたらしい。
勝手なお節介を焼いただけだが、私は彼女の力になれたのかもしれないと誇らしかったものだ。

このときに、人を本当の意味で理解しようとすることの重要性を学んだのだと思う。
人が避けて「変だ」と言う人たちがいるが、「変」って何?と。だって私は、彼女に対して皆が変だと言う部分をとても魅力に感じたから。

彼女が何か障害を抱えていたのかどうかは分からない。でもそういうのはどうでも良くて、彼女という人だけを見たいなと思ったのである。私の目から見れば、彼女はとても魅力的だった。

こんな偉そうに語っているが、私は小学生の頃「どうしてこんなことも分からないの?」と、思ってしまうことが多かったように思う。
人と違う人を見ると、「問題児」だと決めつけ、バカだなぁと冷たい目を向けていた。
自分が冷酷な子供だったんだと気づいたのは、随分遅かった。

https://youtu.be/hFppNU0ONQo

東海テレビの話題になったCM。見えない障害。

知識や想像力が無いことは、刃であると思う。
知らないままに人を傷つけることは、きっと日常にありふれてしまっている。

あの時私が冷たい視線を向けてしまった彼は、何か困難を抱えて苦しんでいたのかもしれない。分かろうとしてあげることさえ出来なかった。

自分と違うから、変だからといって突き放すのは、生きる上で絶対にあってはならないことだ。

でもそれに気づくためには、「知る」しかないのだ。世の中にはあらゆる人がいる。その違いは目に見えるものも見えないものもあって、きっと一生をかけても全てを知ることは出来ないくらいたくさんある。だからこそ常に学び続けて、想像し続けて、優しくなることこそが社会で暮らす者としての使命だと思う。

まだ知らないことが沢山ある。人として社会で生きるならば、できるだけ多くの人に優しくありたい。人を傷つけることは自分も傷つけることだと思うから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?