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海の見える図書室 夏(仮)第一楽章

第一楽章、非遮光性のカーテン


 涼しい風が吹いている。
 右腕をかすかに撫でるカーテンの所作で、僕は夢から醒めた。いい風だった。夏とは思えないからりとした風だ。
 昼下がりのチャイムが鳴る。夏休みは八月に入ったばかりだが、ここからあっという間に過ぎてしまうことは経験則から知っている。
 誰もいない図書室の窓際、腰丈ほどの小さな本棚の上で、僕はひとり昼寝をしている。どの窓も全開、これは風を全身で感じたいからだ。普段は開けない天井付近の窓だって開けている。夏の日射しは苦手なので、カーテンは閉めっぱなし。無論風が容赦なくその布地をひらめかす。あえて電気はつけず、薄暗い図書室の窓際に並ぶ本棚の上に寝転がり、愛読中の岩波文庫で顔を覆う。こうして、人生で二度と訪れることのない一六歳の夏休みを消費する。最高の過ごし方だ。
 毎日こんな陽気だったらいいのに。この季節に入ってから、毎日のようにそんな願いを抱いている。僕――すなわち夏樹マナツにとって、夏は特別な季節だった。
 まあ、その〈特別〉も、他人からしたらたかが知れてるもんだとは思う。姓にも名にも〈なつ〉が含まれているってことと、誕生日が八月二二日だということ、そして文芸部に入部したのが一年前の夏だったということだけだ。
 ――お前が生まれたとき、それはそれは暑い日だったんだ。
 誕生日を迎えると、父はいつもの〈祝辞〉を述べる。
 ――病院の廊下で待っているあいだ、汗が止まらなくてな、そんななかでお前を生んだ母さんはすごかったんだ。ああ、すごかったんだぞ。
 赤ワインを飲みながら母を称える。母さんはすごい。俺は祈るしかできなかった。父はアルコールが入ると、同じことを何度も繰り返すようになる。ちなみに父も母も共働きなので、毎年律儀に祝われるわけではない。父だけの誕生会もあれば母だけのときもあるし、ひとりだけのときだってある。
 ――だから、お前はマナツなんだぞ。真夏日に生まれたんだ。そのことを忘れないために……。
 この話を聞くたびに、僕は父と母の記念碑なのだということを改めて自覚する。僕の存在意義は、生まれたと同時に終えてしまったのだ、と。
 それでもなぜか、僕は一六年も生きている。あと数日で一七年目に突入する。人間は、自分自身に愛着がなくても、人生の春を謳歌できるわけだ。
 なんてことを思いつつも、別にこの名を嫌ってるわけではない。当然好きでもないけれど。そもそも名前なんて、ものを区分するための便宜的な記号なのだ。そこに意味を見出して一喜一憂したところで、僕の未来は変わらない。とはいえ、夏という季節が来ると父の言葉を思い出してしまうのだから、名付けというのは少なからず人を呪縛するものなのだと思えてくる。
 風が吹いた。防砂林の松の枝同士が触れ合って、かさかさと音を立てた。
 ひとりだけの図書室。僕だけの砦。独り暮らしを始めて、お金に余裕ができたら、庇の付いたバルコニーで折りたたみの椅子を広げて昼寝でもしたいもんだ。
 なんて妄想をいつまでも続けたいけど、僕の砦はものの数秒で陥落することになる。
 廊下から足音。――来る。
 ゴリョリョ、という耳障りなドアの開く音と共に、ぐったりとした〈奴〉の声が響いた。
「マナツせんぱぁい、難しいですよぅ……」
 一年の文芸部と弓道部の合同講習会が終わったのだ。火曜と金曜に折節が開いている、国語の大学受験を想定した講習だ。実際には磯高生全員が参加可能な講習なんだけど、顧問権限で文芸部と弓道部は強制参加が恒例となっている。
 一年生は午前中にあって、僕ら二年生は午後にある。今日は現代文か古典か。あのテンションから察するに古典だったのだろう。
「係り結びが分からない?」
「そうじゃなくて……って、ああもうマナツ先輩! そうやって本を開いたまんま伏せちゃダメだっていつも言ってるじゃないですか!」
 ずんずん近づいてくる足音、それから間もなく庇代わりにしていた『罪と罰』を取り上げられ、視界が白に染まった。
「まぶしい」
 思わず声が出る。気だるい身体を起こして目を擦る。白飛びした正面に、もじゃもじゃ髪の後輩が、頬を膨らまして腰に両手を当てている。
「おはよ、コハル」
「おはよ、じゃありませんよ! もう、部屋も真っ暗だし、窓も全開だし……。知ってますよね、部屋が暗いと目悪くしちゃうんですよ! 窓だって開けっぱなしだと潮風で本が傷んじゃう! それでも文芸部の部長ですか」
「お、博識だねえ」
「先輩が教えてくれたんです」
 コハルは奥の窓から一つずつ閉めていきながら、僕の軽い冗句に真面目に答えてくれる。
「知ってるのにやらないの、嫌われますよ」
「次期部長に部室の管理を任せてるんだよ。先輩の鑑だろ?」
「まーたヘリクツ。あ、一番上の窓は先輩閉めてくださいよ。わたしじゃ届かないですから。冷房つけたんですから、窓も閉める、カーテンも閉める!」
「僕の扱いがうまくなってきたね」
「だって自分から動こうとしないじゃないですか」
 コハルはぶつくさ洩らしながらカバンからペーパーを取り出した。
「先輩の鑑を自称するなら、今日の講習内容、教えてくださいよ。もう全然分かんなかったんですから」
 背伸びして窓を閉めたあとで、その紙を受けとった。その特有のフォーマットで分かる。某私立大の過去問らしい。
「『とりかへばや物語』じゃないか」
「先輩、知ってるんですか?」
 斜め読みしただけだけどね、と気のない返事を洩らして試験問題の本文を読む。ところどころにラインが引かれていたり、助詞や活用部分に丸印がされている。文法問題も、特に間違っているところは見当たらなかった。
 コハルが文芸部に入部して三ヶ月と少し。「図書室の本を全部読み倒す」という野望を持っているらしく、難しそうな本も音を上げずに……いや、音を上げながらも、一冊、また一冊と読破していった。当然そのなかには古典文学も含まれていて、『竹取物語』を筆頭に、『枕草子』と『土佐日記』は読んでいたはずだ。三日で飽きそうなもんだと思ってたけど、コハルは一度スタンダードになればいつまでも続けられるということに、最近になって気が付いた。
「読解問題が苦手なのか。現代語にせよとか、主語は誰かとか」
「はい、致命的です……」
 致命的。それが誇張表現でないことは連なる赤いバツ印を見れば分かる。見事なほど外しているのだ。
「解説の時間になったら、まず折節がすらすら訳すんです。で、ですよ、なんかわたしが思い描いてたストーリーとまったく別のお話がそこにあるんですよ! おかしくないですか? わたしの問題だけ別のを用意してたんじゃないか疑惑です!」
 コハルらしい悩みだと思う。勝手に物語を夢想して自爆する。現代文も古典も、問いの答えは本文を探せばあるんだから、迷う必要なんてそもそもないはずなのに。
 そんなことを言ったら怒られるだろうか。へこむことはないだろうが、やめておいたほうがいいだろう。当たり障りのないことを言えばいいや。
「折節は意地の悪いヤツだけど、そこまで手のかかったことはしないから安心しな。基礎はしっかりしてるんだから、落ち着いて読んでいけば、受験には間に合うでしょ」
「間に合わなかったら先輩のせいですからね」
「僕のせいにされても困る」
「あと、こっちも難しすぎです。昨日借りたやつ……」
 受付の卓上に置かれたカバンから、コハルは一冊の本を取り出した。土色の背景に、墨塗のシルエット。そして、朱色で書かれた『破戒』の二文字。明治時代の自然主義作家、島崎藤村の小説だ。
「だからまだ早いって言ったじゃないか」
 『破戒』のあらすじは、ざっくりとこうだ。
 主人公は、父から与えられた戒め、すなわちその身分を「隠せ」という言いつけを守り、学校の教師として暮らしていた。その主人公が葛藤を経て戒めを破り、そして新天地へ旅立つ……。
 被差別部落問題とも密接に絡んでおり、語ればキリがない。明治文学はまず鉄板の漱石に触れてから各々に手を出すほうがいいと思いつつも、人の読書体験に茶々を入れるのは風情がないとも思うわけだ。
「でもでも、今のうちに難しいのに挑戦したほうがいいって思ったんです。難しいの読んでおいたほうが、他の小説も読みやすくなるかなあって。そうしないと、ここの本全部読めない気がするんです」
 この図書室には、準備室に収められているものも含めると、およそ三万冊近い本が蔵書されているらしい。文芸部に入ったとき、そんなことを折節が言っていた。三万。それを三年、つまり約一〇〇〇日で読むということだ。土日祝日と長期休暇を入れたら、一日三〇冊どころじゃない。
  吾が生や涯り有りて、知や涯り无し、と昔の人は言った。知りたがりを満たすには、人生はあまりにも短すぎるってことだ。こんな故事成語を引っ張らなくても、本棚一台に何冊入ってるのかを計算してみて、「図書室の本を全部読む」ことが人間にはできるはずのない夢の話だってことくらい、普通の人間だったら理解できるだろう。
 ただ……コハルは「普通の人間」じゃない。実は頭の片隅で、自身の抱く夢が絵空事であることを悟っているのかもしれない。コハルは、悟ってもなお、やると決めたらやるのだ。僕に対して、二度目の告白をしてきたように。
「速読術でも教えようか? スピードリーディング」
「え、先輩、そんな魔法みたいなことできるんですか?」
「ま、大したもんじゃないよ」
 本当に大したことじゃない。つまみ食いして身に付けたそれは、〈ななめ読み〉を仰々しく言い換えたものでしかないんだから。
「うー、なんかイッシソウデン? みたいな感じですっごくテンション上がるんですけど……んと、数だけじゃないっていうか」
「ここの本全部読むって宣言をしておいて?」
「ぐ、そうなんですけどそうじゃなくって。わたし、ここの本を全部読んだって伝説を残してやろうとか思ってるわけじゃないんです。どっちかっていうと、図書室とひとつになりたいっていうか。物語に溺れたいっていうか……分かります? この感じ!」
「んー、ちょっと分からないかな……」
 そんな返事をするけど、コハルが言いたいことはなんとなく伝わる。量より質を重視したいってことなのだろう。コハルにとってこの図書室で過ごす時間は、無限のものだと信じているのだろう。そして、ひとつでも多くの、自分にとって大切な一冊と出会うために、物語を読み解く力をつけたいのだ。
 そういえば、コハルは本を選ぶのにものすごく時間をかけていた。それはきっと、どの本が面白いのかを値踏みするというより、どの本が自分にも理解できるのかを選んでいるようだった。その時間を読書の時間に費やせたなら、どれだけいいか……。そんなことを思っているのかもしれない。
 真剣な奴だ。僕はそんなふうに、一度でも本気で読書したことがあるだろうか。こんなもの、待ち時間の暇潰しとさして変わらないというのに。
「ま、その本に興味が出てくる魔法の言葉くらいなら、教えても構わないだろ?」
「なんかあるんですか?」
「ああ。なんと、食事シーンでお腹が減る」
「お腹が減る」
「そう。舞台は長野県北部、深い山に囲まれた飯山が主な舞台なんだけど、読み進めていくと、雪と共に暮らす風景がありありと浮かんでくるんだ。美観と飯、いいでしょ」
 すると、コハルは目をキラキラさせた。
 語りたいことは山ほどある。日本自然主義文学黎明期を語る上で欠かせない作品であることや、読んでて腹が減るシーンで僕はドストエフスキーの『罪と罰』を想起させたことなんかがそうだ。でも、そんなことを語ったところで、コハルはその一割も理解できない気がする。とにかく、自由に読んでほしいと思うのだ。
「ああ、それと、作者は大磯で亡くなったんだよ。『破戒』を書き終えてから、ずっとあとのことだけど」
「え、そうなんですか!」
 コハルは運命を感じているが、これは偶然ではない。島崎藤村が大磯で亡くなったという由縁があるから、郷土作品として『破戒』がこの図書室に蔵書されているのだ。
 とにもかくにも、読むモチベーション向上にはなったらしい。コハルは手に持つその作品を、ぬいぐるみでも撫でるように胸に抱いた。
 ……ぱつ。
 音がした。外からだ。今日はいつもより午後の練習が早い。弓道部の練習はいつだって気まぐれだ。今日みたいに早くに始まることもあるし、練習時間が終わっても、一度も人影を見ないことだってある。
 大磯高校の弓道場には屋根がない。コンクリートの土台に、オレンジ色の塗装が剥げかかったベニヤ板でかさ上げして、さらにその上には、しなしなでボロボロの畳を敷いている。いつ見てもひどいと思うけど、松の防砂林が日陰になっているので、案外過ごしやすいのだ。
 今、的前で打起しをしているのは、小柄な女の子だった。青色のハーフパンツ、一年の体育着。冬草ミフユだ。コハルの友達で、弓道部唯一の一年生。春先は弓すら執ることを許されなかったけど、ここから観察する限り、平均四射一中といったところか。この短期間、この環境で二割五分の的中率というのはなかなか上出来だ。
 冬草さんと話したのは、あの日きりだ。春に起きた、例の事件の日。大人しそうで臆病な子だと思ってたけど、その姿勢を見れば、そうでないことは瞭然だった。確かに口数こそ少ないが、魂に芯が一本入ってる。それが射にも表れていて、堂々たる胴造りは、遠目に見ても揺るぎがなかった。
 しっかりとした胴造りは、背中を強めに押してもピクリとも動かない。幼いころ、胴造りをした弓道の師に体当たりをかましたことがあったけど、岩にぶつかったように弾き飛ばされてしまったことがある。冬草さんはどうだろう。ここからだと試せないのが残念でならない。
 一方でチアキやカザミの姿はなかった。二年生の講習が三〇分後に始まるからだ。今ごろ部室で昼の紅茶会でも開いていることだろう。
 三年は先月に引退した。よって、現在は二年生が部を引率している。チアキは部長になった、という話を以前聞いた。
「先輩、忘れちゃいました……」
 窓の外を眺めていると、コハルがぽつんとつぶやいた。花瓶を割ったゴールデンレトリバーのように、しょんぼりと髪を垂らしている。
「家の戸締りかなにか?」
「や、それはたぶん……ちょっと自信ないですけどしてるはずです。じゃなくて、筆箱です筆箱。講習の教室に置きっぱなしというか、たぶんいつものクセで机のなかに入れちゃってる気がします」
「へえ、よくこのタイミングで気付いたね。なに、メモ取りながら『破戒』読もうとした?」
 読書のしかたって人によって様々だ。気に入った箇所をドッグイヤーする人、傍線を引く人、付箋を貼る人、余白にメモを取る人、ぼそぼそ音読しながら読む人、絶対に汚さないという信念のもと綿手袋をはめて読む人……。まあ実際見たことはないけど、そういう人もいるんだろうなというイメージは湧く。
 コハルも僕も、特に決まったスタイルはない。ただ、折ったりメモったりは厳禁だ。主に読んでるのが図書室の本だからっていうのもある。
 それと、僕は音楽を聴きながら本が読めない。音楽を聴くことに意義を見出せないから、というのもあるが、どうしても気が散ってしまうのだ。だから人と話しながらとか、昼休みの教室みたいに騒がしいところも難しい。
「あ、いや、読むわけじゃなくてですね」
 コハルはごにょごにょもじもじしながら、ちらと僕を見た。
「窓の向こうを見てる先輩見てたら、しっかり〈描写〉しないとって」
 ノートで口元を隠しながら言うコハルに対して、「ああ、そっち」と洩らす。
 僕が大磯高校に留まることを決めた日。つまり、コハルが僕に対して、二度目の告白をしたあの日、コハルは小説家になると言い出した。
 そそのかしたのは、僕、ということになっている。あの日、コハルの想像力に対し、皮肉を込めて「小説家でも志してみたらどうだい」と言ったのだ。
 ――先輩が編集者として担当になってくれるのなら、書きますよ。いくらだって書きます。
 コハルはこう返答した。あの目は、いつでもあなたを殺してみせますとでも言ってるような真剣さだった。自分自身の言葉の軽さを嘲笑いたくなるくらいには、コハルは当たり前のように真っすぐだったのだ。
「大変だねえ、書いたり読んだりさ。個人的には、午後は時間いっぱいまで『破戒』に浸るもんだと思ってたけど」
 そして僕の言動は相変わらずカーテンのように、風になびくばかりなのだ。
「ぐ。読みます。読みますとも! 二兎でも三兎でも追ってやりますとも! ちょっぴり時間は足らないかもしれないですけど、でも、全部やりたいっていうのは、間違いなくホントのことなんですから!」
 コハルは風のような子だ。僕がいようがいまいが、吹き続ける。目に見えないだけで、風はあり続ける。そのことを本人は理解してないんだろうけど。
「だから先輩」
 コハルはデフォルメされたわんこのイラストが付いたノートを渡してきた。
「こっから先が、前回から書いてきた分ですんで、筆箱取ってくるあいだに読んで感想教えてくださいね!」

 『ぼくは月を見ている。』第四巻

 ノートの表紙には色とりどりのマーカーで、こう書かれている。コハルが思うまま書き連ねている小説のタイトルだ。開くと、びっしり小さな文字で、物語がうごめいている。
「書くペース上がってない?」
「夏休みになって、ヒマが増えたからなのかもしれないです。あ、小説書いてると、お母さんが差し入れくれるんですよ!」
 えへへと笑う。たぶん勉強してると勘違いされてるんだろうと思う。自分の娘が小説を書いてるなんて思いもしないだろう。
 それにしてもだ。
「この量を、筆箱を取って戻ってくる数分で読めって言うのは、さすがに酷だとは思わない?」
「大丈夫ですよ。だってマナツ先輩、魔法使えるんですよね? 速読魔法、スピードラーニング!」
「スピードリーディング」
 聴き流してどうする。
「ですです! じゃ!」
 コハルはパタパタと廊下を駆けて行ってしまった。
 速読魔法、やろうと思えばできるかもしれない。けど、後輩が書いたものを〈ななめ読み〉するのはどうなんだろう。そもそもこの魔法は活字でのみ使用可能だ。コハルの手書きはクセがあって読みづらいので、自ずと熟読するハメになるわけだけど。溢れ出る思いを書き留めるので精一杯なんだって感じが伝わるから、別に嫌いなわけではない。
 さて、春菜コハル先生の処女作『ぼくは月を見ている。』の主人公は、僕だ。
 語弊がある。正しくはコハルから見た〈ぼく〉が主人公だ。そしてこの〈ぼく〉は太陽としばし重ねて描かれる。地動説の英訳を知ってるかは定かでないが、コハルにとっては世界はHeliocentrism(〈ぼく〉を中心に公転す)なのだ。
 正直、読んでてむず痒いシーンはある。多々ある。どうしてこれを僕に読ませるんだと思うことばかりだ。でも、むず痒いものを削ぎ落していけば……本当に残るものは微々たるものだけど、ふとコハルが見る世界の透明さに息をのむことがある。それはおぞましいと表現してもいいかもしれない。晴天の夏空、芝生の上で寝転がって見上げたときに、その青に向かって落ちてしまうんじゃないかって思うような、そんなおぞましさだ。ただの青色の裏に、遥かなる宇宙がある……確かにあるんだと、予感を抱かせる。
 ただ、もしこの小説がコハルの書いた作品でなかったとしたら、最初の三行で読むのをやめて、当たり障りのないことを言ってそれで終わっていたに違いない。まだ僕のなかでも理屈だっていないんだけど、コハルのつくったものであるならば、全力でぶつかってやらないといけない気がした。
 これが義務感から生じるものなのか、もっと別の感情からなのか。
「羨ましい奴だよ」
 なにが羨ましいと思えたのだろう。勝手に言葉が口から洩れた。
 と、ここで図書室のドアがノックされた。
「開いてるよ」
 そもそも図書室はノックをして入室するような場所ではない。誰でも自由に入って、自由に出ることができる。ノックをするなんて文化は磯高特有というべきか、あるいは〈僕〉という存在がいるためなのか。きっと後者だ。僕はこの狭き社会のあぶれ者で、ここはその受け皿でありアジトなのだ。
 ま、そのおかげでコハルの秘蔵小説をカバンの下に隠すことができるわけだけど。
「失礼します、こんにちは、映像研究同好会の御咲サキです」
 現れたのはコハルの友人の御咲さんだった。ハキハキとした声でポニーテールを揺らし、一礼した。でもその声は若干の意気込みというべきか、入室の直前に二、三度深呼吸をしたような緊張が伝わる。
 そして御咲さんの隣には特大マイク付きビデオカメラを手にした男子生徒が付き添っている。どこかで見たような顔をしている。上履きの色からして同学年らしいので、おそらく何度か廊下ですれ違ったことがあるのだろう。
「久しぶりだね、御咲さん」
「あ、はい。ミフユっちを助けていただいてありがとうございました。ホント、お世話になりましたし勉強になりました」
 大したことはしてないさ。と返事して、本棚に腰かけた。御咲さんは目を輝かせて僕を見る。彼女の正面に立つ人間が、そんな目を向けるほどの価値があるかは甚だ疑問だった。
 的に矢が当たる音が窓の向こうから聞こえてくる。いつものヨーシ、という掛け声は聞こえない。そこにいるのは、たったひとりの一年生だけだからだ。
「で、コハルに用かな? あいにく席を外しててね。すぐ帰ってくると思うんだけど」
「あ、言いそびれてましたね。今日は取材で文芸部室にお邪魔させていただきました」
 文芸部室。部員でない人からその言葉を聞くのは新鮮だった。
「突撃取材だねえ」
「やースンマセン、スケジュールが混み混みでして……」
 へこへこ頭を低くして、まるで営業マンのように御咲さんは苦笑いを浮かべた。
「スケジュール混み混みなのに、どうしてボクは御咲クンの付き添いをしなくてはならないのだろうか」
 一方カメラマンの男子生徒は呪詛のような言葉をぼやいた。分厚い眼鏡越しでも分かる大きなクマが目元にあって、不健康な青白い顔色をしている。これは徹夜明けの顔だ。
「インタビューは二人一組が定石なんです。それにカジ先輩は少し日の光を浴びてください。ずっと籠りっきりじゃないですか。カビかキノコ生えますよ」
「カビでもキノコでも生えてくださいよ。完パケするならいくらでも生やしますよええ……」
「やースミマセンね夏樹さん。カジ先輩、修羅場の真っ只中で。……というか修羅場は映研一同って感じなんですけど」
 一瞬営業スマイルが解けて、げっそりした表情を見せた気がした。
「なにそれ。海鳴祭(かいめいさい)の準備かなにか?」
 海鳴祭は大磯高校の文化祭だ。秋に開催されるのだが、凝った出し物をするクラスや部活は、なんと夏休みから準備を開始しているのだ。行事に積極的という校風なのは知っていたが、まさかここまで力を入れてくるとは思わなかった。そのため、磯高の八月は他の高校と比べるとかなり賑わいがある。無論、他校に知り合いなどいるはずもないので、あくまで個人の感想の域をでないのだが。
「そうなんです」
 御咲さんはワケありな表情を浮かべている。
「映研は大作短篇SF恋愛サスペンス映画『潮騒とこゆるぎの浜へ』を上映する予定なんです。が――」
 ここで御咲さんは苦笑いを浮かべた。
「情けない話、ヒロイン役が突如蒸発というか、降板というか、してしまいまして」
 それは災難だ、と所感を口にすると、御咲さんは頬を掻いた。
「いや……言い方が悪かったですね。降板したあの方はまったく悪くないんです。カジ先輩がですね、キモすぎる演出ばかり強要するもんだから、嫌気がさしたんですよ」
「聞き捨てならんぞ、御咲クン!」
 カメラマンの男子が抗議の声を上げた。
「ボクは彼女の魅力を最大限にだね、えー、引き出そうとしたまでなのだ! むしろどうしてボクの神的な演出に付いてこられないのか、甚だ疑問だね!」
「とかなんとか言って、片方だけ靴下を脱がして、ひたすら足の指をくぱくぱしろとか、階段の踊り場で枕を抱いて、階段の角を足先で撫でろとか、脱ぎかけの靴下の状態で、水の入ったコップ越しにくるぶしを撮影するとか、マニアックすぎじゃあないでしょうかね! あと鼻息が荒い。距離が近い。視線が足ばっか。しれっと脱いだ靴下嗅ごうとする。発言がどれも情動にゆだねられすぎ! キレ散らかすのも真っ当ですよ!」
「この作品は映画史に刻まれる礎! あれらは分かっとらんのですぞ。芸術とは何たるかを!」
「芸術より常識とはなんたるかをですね! 言い訳はいいので、脚本です脚本! 今だって、思いつかないっていうから、〈散歩〉してるんじゃありませんか。頼みますよ」
 とにかく、大変なことが起こっているらしい。実にどうでもいいと言えばどうでもいい。
「あ、それでですね」
 取り残され気味だった僕を気にしてか、御咲さんはさっと話題を元に戻した。
「海鳴祭の期間中に短篇映画を上映するんですが、その合間に、磯高のPR動画を流すんですよ。来年度の入学志望者向けですね」
「なるほど。つまり君らがここに来たのは、PRの一環に部活動紹介があって、文芸部も紹介してくれるってことだね」
「ご理解が早くて助かります。ええ、五分程度いただければと思います。誠心誠意PRしちゃいますよ!」
 と言って、サキは誇らしげに腕を組んだ。講習の時間が近づいているけど、その程度なら大丈夫だろう。コハルが来ればすぐ始められる。
「ああそれと、先輩、こんなウワサ知ってますか?」
 話題が途切れたところで、御咲さんが一歩前に出て声を小さくさせた。
「図書室に現れる〈幽霊〉のウワサ?」
 冗談を言ったつもりが、御咲さんも、ついでにカメラマンの男子生徒も顔を硬直させた。が、御咲さんはすぐ表情をやわらげる。
「やー、そうじゃありませんって! ちなみに弓道部にはびこる不良のウワサでもないですよ」
「なんだ、残念」
 人生経験からして、僕の冗談はどうも通じにくいらしい。どれも本気に聞こえてしまうようだ。
「八月二二日に花火大会があるの、知ってますよね? ほら、そこの灯台から打ち上がるんです」
 サキは窓から見える大磯港の灯台を指した。
 八月二二日。
 さして重要でない一日。しかしどうしてそんな日に花火が打ち上がるのだろうか。
「あれれ、夏樹さんもしかして、ご存じない? 花火大会」
「あー、そうだね、初めて知った」
「なんですと。磯高生なら花火大会の日程と西行饅頭の味くらい把握しとかなくちゃですよ!」
 情報のハードルが高すぎるし、なんだその饅頭は。食べたことないぞ。
「……まあいいでしょう。夏樹さん茅ヶ崎の人ですもんね」
 しれっと僕の地元が割れている。おそらくコハル経由で掴んだ情報だろうけど、さすが〈情報屋〉を名乗るだけはある。
「で、この花火大会なんですけど、第一発目は例年芯入り白菊がぶっ放されるんです。白いのが、ドーン!、とですね、花開いた瞬間に想いを打ち明けると、その想いは必ず伝わる……って話がありまして」
「結局ウワサどまりでしょ」
「そうですけど、ほら、火のないところに煙は立たぬって言うじゃないですか。だからこれだって――」
「立つさ。簡単な話だ。思春期をこじらせた磯高生が妄想を膨らまして生まれた成れの果てさ。二二日といえば夏休み終盤。その日は海鳴祭の準備で居残る生徒が多い。夜には花火大会がある。みんなで準備にいそしむあいだに、ふと海から打ち上がる花火が見える。素晴らしき哉、青春! 花火が打ちあがった瞬間告白でもできたら、そりゃ寝言でもすっとぼけでも感動的な話に聞こえるに違いない……。ってなもんで、そんなウワサをでっち上げて、人づて人づてに君のところまできたんじゃないかな?」
「ほおぉ、夏樹さん、いい探偵になりそうですね。アガサ・クリスティーかエドガー・アラン・ポーがお好きで?」
「僕は探偵にはなれないさ。赤川次郎や米澤穂信がお似合いかな」
「ほほぅ。日本文学がお好きなんですか。夏樹さんはてっきり……海外文学畑だと思ってました」
 サキの視線が、わざとらしくテーブルの上に注がれた。そこには、日よけにしていた『罪と罰』が置かれている。
「ご明察。本屋に行くといつの間にか海外文学の棚の前にいることが多いよ。『罪と罰』『嵐が丘』『西部戦線異常なし』、『方法序説』に『ボヴァリー婦人』……」
「『方法序説』は哲学書では?」
「マルクスにキェルケゴール、アウグスティヌス、なんでもかじれるってことさ。『イタリア紀行』『ヨブ記』に『ガリア戦記』……とにかく、語り手の魂に耳を傾けたいのさ」
「いいですねえ、いいですねえ……」
 御咲さんは嬉しそうに瞬きをして頷いた。僕はいつの間にか〈情報屋〉へ情報を提供する側にまわっているらしかった。これは御咲さんが意図してやっているというよりも、単なる呼吸の一環であるように思えた。息をするように相手の情報を収集する。僕の一挙手一投足、発言の内容はもちろん、語尾のニュアンスまですべてを観察している。
 こういう相手を見ると、少しいたずらしたくなる。
「これ、読んだことある?」
 テーブルの『罪と罰』を拾い上げて、御咲さんに問いかける。
「ほほう、岩波版ですね。『ツミバツ』なら新潮版をかじる程度に」
「へえ、驚いたな」
 こういう人間は、大抵小難しそうな本の話をすると急に言葉を詰まらせる。あるいは知ったかぶりをして、深く掘り下げられる前にうまいこと話題をそらす。これは僕の偏見だけど、彼らは自身の経験だけを過信して、自身の尺度でものを語る。即物的な小手先主義。ハウツー本よりも分厚い本は読まないものなのだ。と、そう踏んでたんだけど。
「ラズミーヒンがいい子ですよね。友達想いで、個人的にイケメンですよ彼は!」
「イケメンなら主人公のラスコーリニコフも負けてないだろうけどね。僕はスヴィドリガイロフかな。親近感が湧く」
「あっ、へえ……」
 スヴィドリガイロフは放蕩人だ。姑息で大胆で臆病者だ。ラスコーリニコフの妹を狙い、あの手この手を使って自分のものにしようとする。まあ、そういう人間だ。御咲さんの反応はもっともだけど、安易な同意をしないところからも、この子はちゃんと読んでることが察せられる。
「夏樹さん、めちゃくちゃ意外そうな顔してますけど、これ情報屋としては当たり前のことですよ。教養がなくっちゃ、張れるアンテナも張れませんから。文学を嗜むのも、情報を得るために必須です」
「なるほど。君は情報収集に魂を捧げた人間だってことを改めて認識したよ」
「へへ、光栄です。ああでも、ロシア文学は『罪と罰』以外読んだことないので、面白い作品があったらぜひ教えてください」
「そうだね、短篇だけど、チェーホフを読んでみるといい。なにかが起こっても、なにも起こらないから」
 あえて意味深っぽく、それでいて特に他意があるわけでもなく、ある批評家のチェーホフ観を引用した。御咲さんは少々頭を捻って思案した。
「チェーホフですね。ありがとうございます! や、ホント、夏樹さんとお話しできるの、話のレベルが合ってるというかなんというか。気持ちいいです」
 そんなふうに言われるような会話はしてないように思えるけど、御咲さんは喜んでいるように見えた。
 その一方で、カメラマンの男子生徒は恐縮そうに入口の近くできょろきょろと本棚を眺めていた。
「ほら、カジ先輩、話しててフツーじゃないですか。どうしてそんなに乗り気じゃなかったんですか」
「そんな人聞きの悪いことを……。あーその、なんだ、あー、残った素材や資料をもとに、映画の構成をどう改めるか考えてだね。えー、あー、果たして終わるか否かだが、うー、むー」
「終わりそうにないのはPRも同じですって。先輩、去年もPR班だったんでしょ? 夏樹さんへのインタビューだってしたんじゃないんですか?」
「あーえー」
 カメラマンはしどろもどろに視線を泳がせた。
 彼がこうも落ち着きがないのは。性分だけのせいではないらしい。
「去年? 去年はこんな取材受けてなかったけど」
 僕の一言を聞いた御咲さんが、ギロリとカメラマンの男子生徒に向けられた。
「ああと、それはだね、御咲クン、ええと、勘違いしないでほしいんだが、えと、文芸部が存続していたとは知らなんだというワケでだね、えーそう、別に怖かったわけではなくてだね、そのー」
「ダメですよ! メディアを扱う人間として、しっかり情報のアンテナは張っておかなくちゃ! 素人じゃないんだから、知らないはありえません。前提としてあってはならないんです! 発信者は十歩先の情報を掴んで、二歩先の情報を発信しなくちゃ生き残れませんからね!」
「ボク、メディアの人間じゃないし。映画人だし」
「あーこれだから頭の固いクリエイターは。私は自称の話をしてるんじゃなくて、作品が人からどう見られるかの話をしてるんです。そんなんじゃ独りよがりなものしか撮れなくなって、誰一人先輩の才能に気付かずに人生終えますよ!」
「独りよがり?」
 カメラマンは眉をひそめた。
「撤回したまえ。そして独創性と言ってくれたまえ御咲クン。では訊くが二番煎じを好む輩がどこにいると?」
「二番煎じを否定する思想は、やがてメタファーを否定しますよ! お約束、いいじゃありませんか! 『行くな』と言われたら行く。『なんだかイヤな予感がする』と言ったなら直後に予感的中! お約束は安心と期待とワクワクが詰まってるじゃないですか!」
「では御咲クン、問わせていただくが、キミは『遅刻ちこくー!』で駆け出す女子高生が曲がり角で転校生とぶつかる演出を見て、興醒めしないと言うのかね? 今後の展開に期待を膨らますと? ん?」
「カジ先輩、それは『陳腐』って言うんです! お約束と二番煎じとメタファー、全部違いますからね! 撮ってばっかじゃなくて勉強してください!」
「知った口なら毎日一本以上観てから言いたまえよ!」
 カメラマンは御咲さんの説教によって、眉をしかめた。今までやる気が失せて乾燥しきった瞳をしていたのが、みるみる潤って透明感が増してきた。白熱した議論は早口すぎて分からなかったが、御咲さんはちゃんと理解しているらしい。
 この二人の姿を見ると、どこかほほえましさを感じてしまうのだった。腹を割って語らえるというのは、それだけで貴重な存在なのだろう。
 激論のさなか、図書室のドアが控えめに開いた。ひょっこりもじゃ髪が姿を現した。
「あの、先輩……って、なんですかこの状況は」
 コハルが、激論を交わす二人を交互に見て言った。
「ちょうど君が来るのを待ってたんだよ。文芸部の紹介動画を撮影してくれるらしい」
「撮影! ……にへへ、わたしたち有名人ですね」
 ちょっとその感覚は理解しかねる。コハルは一瞬有名人になった自分を妄想したのか、身体をよじらせていたが、ふと我に返り、青ざめた表情を向けてきた。
「あ……でもマズいんですマナツ先輩。あの、教室に風宮先輩がいて……」
「カザミが?」
 まるで部屋にゴキブリが、みたいな口振りだったのが少し面白いけど、コハルは明らかに怯えていた。
「あ、コハルン! どうしたの?」
 御咲さんが議論をばっさり中断して話に加わってきた。
「講習の教室に弓道部の先輩たちがいて、ひとりじゃちょっと入りづらい感じで……」
 次の講習は二年生が対象で、当然弓道部の〈女帝〉カザミも強制参加であることは変わらない。始業時間ギリギリまで部室で時間を潰してるもんだと思ったけど、僕の予想が外れたようだ。そういえば部室には空調がなかった気がする。なるほど、二年は講習へ行き、一年は弓道場へ向かった、と。
「手間のかかる後輩だ。そしたら、少し早いけど僕も講習に行こうかな」
「あ、でしたらインタビューはまた後日でも大丈夫ですよ。都合のいい日に合わせられるので」
 カバンを持つと、御咲さんが配慮してくれる。
「あ、ごめんね。スケジュール追われてるのに」
「いえいえ。取材相手あってのインタビューですから。それに、こちらもアポなしで来ちゃったわけですし」
 よくできた後輩だ、と思う。我が部の後輩と来たら、本が潮風で傷まないよう廊下側の換気をよくすることを徹底してるし、作品は読み終えたら必ず感想を伝えてくれるし、下校時間はちゃんと守るし、遅刻する場合は必ず連絡を入れてくるのだ。少しは見倣ってほしい……否、充分すぎるくらいによくできた後輩じゃないか。指導の賜物と捉えておこう。
「マナツ先輩、早く早く! 筆箱回収! 昼の講習が始まっちゃいます!」
「やれやれ、そう急くな」
 ぴょこぴょこ跳ねる我が後輩を眺めつつ、図書室をあとにした。

φ

「先輩、サキとなに話してたんですか?」
 講習は山側校舎の二階で行われる。図書室は海側校舎の四階なので、距離がある。つまり移動に時間がかかるわけで、コハルはそんな移動時間も僕と話をしたいみたいだった。
「なに、やきもち?」
「あ、そういうこと言っちゃうんですか先輩」
「冗談だよ。御咲さんとは充実した文芸トークをね。『罪と罰』の登場人物の中で、誰が一番気に入りかって話を少々」
「羨ましい! うう、私だって『破戒』を読んだら手を付けるって決めてたのに!」
「感想楽しみにしてるよ。海鳴祭に、おすすめ作品レビューの冊子を作るわけだし」
「そっちの準備も始めないとですね……」
 コハルと『罪と罰』を語らうのであれば、好きな登場人物の話よりも、主人公の葛藤とか人生観に関して語り合いたいと思った。いや、語り合いにはならないかな。きっと一方的な〈語り〉になる。僕のとりとめのない読了後の印象を、コハルは呆けた顔をして頷くに違いない。分かってるようで分かってなさそうで、それでいて芯の部分だけはしっかり理解したような、そんな眼差しを向けるんだ。
「準備で先輩と居残り作業とかするんですよね。楽しみです」
 僕は不思議でならなかった。どうしてコハルは、こんな僕に憧れや尊敬や、それ以外の様々な感情を持つのだろう。そんなのエネルギーのムダじゃないか。僕が語るのは、頭に浮かんだ耳障りのいい言葉でしかない。つまり僕は偉そうなことを言ってるようで、単なる言葉遊びをしているだけなのだ。
 いい加減に気づいてくれとも思うし、気づいているなら言ってくれとも思う。そうすれば僕の荷は軽くなって、なにも考えずにすむんだけどな。
 夏樹マナツは空蝉だ。だってそうだろう? 僕の中身は、探せばどこかの本に、必ず収録されているんだから。
「それと、コハルの小説、軽く読んだけど」
 階段を降りる途中で、話題を変える。
「どうでした? ちょっと方向性を変えて書いてみようかなって思ったんですけど」
「もしかして、弓道について書こうとしてる?」
「あ、そこまで読めたんですか?」
 コハルは目を輝かせた。恐るべしとでも言うべきか。今まで太陽と月のたとえ話ばかりだったのに、今度は弓道が題材になるそのセンスは見習おうとしても習えるものではない。が、問題は。
「……コハル、〈羽分け〉って知ってる?」
「はわ、はわわ?」
「〈会〉は?」
「貝?」
「〈安土〉……」
「あ、それ知ってます。織田信長……いや、豊臣秀吉でしたっけ」
 案の定と言うべきか。コハルは自らの妄想上の〈弓道〉を、例のノートに書き綴ろうとしているらしい。コハルのセンスは認めるが、これでは読めたものではない。弓道をかじった人間は、どういうわけか、弓道に関する細かい描写が気になって仕方がない病にかかってしまうのだ。
 角を曲がって数十歩、講習の教室についた。
「先輩のその顔……。さてはまたいつもの『弓道部の見学に行ってこい』ですね!」
 いや、そんなこと思ってなかったけど。
「ダメですよ、何度玉砕したと思ってるんですか? 七回ですよ、七回! ……あれ、五回でしたっけ? 三回……?」
 四回くらい玉砕したのは覚えてる。玉砕覚悟で毎回トライするコハルもすごいが、折れない弓道部も弓道部だと思う。たぶんカザミが一枚噛んでいるのだろう。弓道部の決定事項は、大抵カザミの顔色を伺って決まるのだ。
「……分かりました、それは無言の命令ですね」
 コハルが妙な解釈を続け、勝手に話が進んでいく。
「何度目かは忘れちゃいましたけど、玉砕してやりますからね! 骨は拾ってくださいよ!」
「うん、筆箱、忘れるなよ」
 わざわざ訂正する必要はないだろう。コハルは勇ましく敬礼をすると、二度深呼吸をして、ガララっと小気味よくドアを開けた。
「こんにちはっ!」
 深呼吸をしていたわりには、くだけた口調で挨拶する。僕は教室から見えないように、廊下の壁に背中を合わせて、コハルの声に耳を澄ませた。
「よぉ文芸わんこ! 出やがったなあ!」
「おや、個人的に、また煎餅をご所望ですかね?」
 僕が想像していた反応と異なる声が上がった。和んだ空気が廊下にも伝わってくる。コハルの度重なる玉砕は、単なる時間の浪費というわけではなかったのかもしれない。
「こないだ食べたハナフブキ、でしたっけ? あれ、おいしかったです!」
 花吹雪。落花生の入った煎餅だったか。チアキと帰るときに、寄り道したことを覚えている。煎餅というより固めのクッキーかやわらかめのビスケットのような触感で、味は甘じょっぱい。たしか村上春樹の小説か随筆にも出ていたと思う。
「……じゃなくて、あの、風宮先輩はいらっしゃいますか?」
「ん? ああ、奥で秋穂といるよ。ヘッドホン着用中。よって面会は謝絶中だ。けど……」
 男子部員の声。聞き覚えがある。積極性のない男子部員のなかでは、カザミの機嫌取り役を買っていた奴だ。名前は努めれば思い出せるけど、そこまでエネルギーを割く必要はないだろう。彼は小声でコハルに続けた。
「どうせ弓道部の練習風景を見させてくれってやつだろ? わざわざ来てくれたところ悪いんだけどさ、何度頼んだってムダだと思うんだ。風宮さんは一度決めたら二度と撤回しない。弓道部の練習風景を見たいのなら、遠回りだと思っても別の選択をしたほうがいい」
「そうかもしれませんが……でもわたし、もっと仲良くなりたいなって思うんです。どうしてって言われてもうまく答えられる自信がありませんけど……でも、わたしと風宮先輩って、どこかおんなじとこがある気がするんです」
「んー……?」
 彼は戸惑いの声を漏らしつつも、肯定も否定もすることはなかった。
 僕から言わせれば、コハルとカザミはまったく別の人間だ。コハルはなにかものを成し遂げたいとき、自分の力でやろうとする。カザミは人を使い、自らの手を汚さない。どうしても行きづまったとき、コハルは友達に協力を仰げるけど、カザミの立場ではそれが難しい。カザミは誰も信じない。だから相談もできないし協力をお願いすることもできない。
 僕が弓道部を辞めてから、果たしてどう変わったのかは詳しく知らない。知る必要もないことだと思っている。とにかく、チアキさえ部にいるのであれば、それでいいのだ。そのことは、今なお部に留まる人間であれば、重々理解しているはずだ。
 とにかく、話から察するに、〈女帝〉カザミが裏で支配する帝国と化していることは疑いないだろう。唯一の邪魔者であった僕は、去年の六月に引退し、そして目の上のたんこぶたる先輩たちも先月いなくなった。よって、カザミの弓道部征服は達成したはずなのだ。
 唯一気がかりなのは、カザミがかつて望んだ弓道部と現状に、大きな隔たりがある点だ。奴の野望は口先だけだったのだろうか。それとも立ちはだかる「現実」に打ちのめされて、方針を転換せざるを得なかったか、それとも現実から逃げ出したのか……。
 ともかく、こんな弓道部なのか「放課後ティータイム部」なのかあるいは絶賛会議は踊るよ状態なのかは定かでない現状に、ひとりのOGとして、カザミの元参謀として、辟易するのであった。
「誰かと思えば」
 と、別の声が話に加わってきた。
「あ、チアキ先輩、こんにちは」
「懲りないわねぇ……」
 聞き馴染みのある声。世界中の誰よりも聞いた声だ。顔を見ずとも、表情だって仕草だって想像できる。
 秋穂チアキ。僕の古馴染みだ。
 おそらく世間一般的に言えば、これとの関係は「幼馴染み」なのだろう。しかしこの呼称で呼び合うには、気恥ずかしさというものがある。かといって「腐れ縁」と呼ぶのは、まるで「幼馴染み」というワードを避けてます感があるし、物語かぶれな印象も受ける。よって僕らは、「古馴染み」という中道的な間柄に落ち着いたのだった。
 ……と、まるで二人で相談し合ったような言い方をしているが、そんなことはまったくない。視線と視線で、呼吸と呼吸で、なんとなくそういう方向になったのだ。かれこれ一三年か一四年もいれば、このくらいは言葉を交えることなく取り決めることができるのだった。
「磯高の弓道なんて見ても、ちっとも勉強にならないわよ」
 我が古馴染みのチアキが忠告した。
「やー、でもですね、弓道についてなにも知らないんです。さすがにそれで小説は書きたくないかな、と……」
「なにも知らないなら書かなくてもいいじゃない」
「わたしだって、書けそうにないものは書かなくたっていいんじゃないかなって思います。少しの知識もないし、自信なんてちっともありませんし。……でも先輩、ダメなんです。それでも、書くしかないんだなっていう諦めなんです」
「なにそれ。呪いみたいね」
「かもしれません。弓道に呪われちゃったのか、マナツ先輩に呪われちゃったのか分かりませんが……」
 呪いをかけた覚えはない。まあ、呪いは勝手にかかるもんだし、かけたほうが無自覚であるということは別に珍しいことじゃない。
 チアキはため息を洩らした。このとき、軽くうなだれるクセがある。今もしているだろう。
「ちょっと待ってて」
 チアキと話すとき、たびたびコハルの話が出てくることがある。そのとき、チアキの口振りはややトゲのあるものに変化する。コハルのことをよくは思っていない。というか目の敵にしている。僕が磯高を辞めるキッカケがコハルだからだ。あるいは、弓道部と僕との関係をかき混ぜる存在だからなのだろうか。少なくともコハルがいなければ、僕と弓道部は永遠に関わりなく過ごせたはずなのだ。
 だとしても、チアキは困った人を目の前にすると、いてもたってもいられなくなるのだ。
「ほら、これ」
 声色からして、ぶっきらぼうに差し出しているはずだ。たぶんそれは、なんとなく想像がつく。
「きゅーどー、きょーほん……?」
「審査もしばらくないし、まずはしっかり読みなさい」
 『弓道教本』は、入部した人全員が手に入れる、A5サイズで柑子色の冊子だ。弓道に関する〈いろは〉がそこには記されているわけだが、特有の言い回しや比喩表現があるので、技術書として読むと読みづらいが、哲学書として読むと読みやすい。
「それと、弓道を間近で見学したいのなら、いるじゃない」
「いる……んですか?」
「図書室に戻ったら訊いてみれば? 私たちより数段上手いから」
「図書室……ああ、マナツ先輩ですね!」
 まるで世紀の大発見でもしたかのように、コハルは大きな声を出した。
 その瞬間、真夏の教室は凍るような空気に包まれた。
「そっか、マナツ先輩も元・弓道部ですもんね! でも、できるんですか? マナツ先輩って、弓道部追い出されちゃったんですよね? てことは、ここじゃできませんよね? ほかにやるとこ――」
「ちょ、ちょっと、春菜さん! 春菜コハル! そんな大声で……!」
 チアキはもう少し早く止めたほうがよかったんじゃないかと、僕は勝手に考えるのだった。たぶん、コハルが息をするように無自覚な〈失言〉をかまして、呆気にとられてしまったのだろう。想定外のことが起きると、チアキはキョトンとした顔でしばし立ち尽くすのだ。そこが面白いんだけど、まあ時と場合を選びたいところだ。
「もうじき講習の時刻です、春菜コハル」
 ああ、ついに出てきてしまった。カツカツと上履きを鳴らして近づいてくる。うっすら氷でも張りつきそうな、そんな冷えきった声だ。
「あなた、二年に混じって受講するほど勉強熱心なのかしら。それとも時計も読めない愚の権化?」
「あ、風宮先輩。こ、こんちゃーす……」
 コハルの声がか細く震えた。
「ごきげんよう。で、この教室に来た要件は? 弓道部だけならまだしも、ここは自主参加の生徒もおいでなの。分かる? 大声で騒ぐ場所ではありません」
 大磯高校では、僕の存在は〈幽霊〉ということになっている。これには一年前、弓道部とのある騒動が深く関わっている。
 どんな事件だったか? 簡単な話だ。感情的になった僕が、カザミを殴りとばした。世間一般的に暴力とはいけないことで、学校からは一週間の停学を命じられた。そのあと、弓道部は自主退学をした。そして僕は図書室で暇を潰すようになった。そしたら誰も図書室へ足を運ぼうとはしなかった。いつしか僕は〈幽霊〉と陰で呼ばれるようになった。それだけの話だ。
 コハルにも言ったはずなんだけど、「僕が弓道部から追い出された」という話は間違っている。追い出されたんじゃない。僕が自ら退部したんだ。
 人聞きの悪いことを言うな。カザミはそう言いたいのだ。僕だって弓道部の印象が勝手に下がるのは困る。僕は、弓道部が過ごしやすい場所であってほしいと思ったから、辞めたんだ。
「あ、ええと……」
 コハルは口をもごもごさせた。
「えと……あ、そうです! 筆箱です! 筆箱を忘れてたんでした!」
「は、筆箱?」
 まるで思い出したようなコハルだが、僕も忘れていた。
「あーでも、別に今取りに行くほどでもないかなーって……えへへ」
 カザミの気に圧されたのか、コハルは作ったような笑い声を出した。その曖昧な態度に、思わずため息が出た。
「春菜コハル、あなたは取り繕いが下手くそね」
 その優柔不断な態度というのを、カザミは一番嫌うのだ。
「ほえ? ……いや、そんな取り繕いじゃ」
「幻滅。できることなら近づきたくないと思ってましたが、それでも正直なところだけは買っておりましたのに。それがこの陳腐な言い訳。呆れ果てます。結局はあなたも凡人と変わらない保身と道化を持ち合わせているだけなのね」
「保身はよく分からないですけど、道化はついついとっさにしちゃうんですよね」
「それ、煽り?」
「あお……や、どうして――」
 あ、これはまずいな。カザミは言動こそ冷静でいるけど、内心はどこまで怒りをたぎらせているのか分かったもんじゃない。指パッチンひとつでコハルを退場させられるのだと直感するほどには……。
 できることなら避けたかったけど、開けっぱなしのドアを二度叩いて、さっと教室に入った。
「言い方が下手くそすぎなんだよ、コハルはさ」
 率直な感想を口にして、ぽんとコハルの頭に手を置いた。一瞬コハルはぴくんと身体を硬直させた。
「マナ、ツゥッ!」
 一方カザミは、怪我を負ったトイプードルのように身を萎縮せて、僕を見た。黒い瞳がわずかに揺れ動く。それでも、カザミは気丈でいようと必死に思えて、それが僕にとっては心苦しく感じた。
「うちの後輩は口下手でね。元々ここに来たのは忘れた筆箱を取るのが目的だったんだ」
 そう言って、コハルにはどこに座っていたのかを確認する。おそるおそる伸びる指が教室の窓際奥をさす。そこは毎度の講習でカザミが座っている場所だった。
「だ、そうだけど?」
 僕が促すと、カザミはチラと背の高いひょろ高の男子部員を睨んだ。彼はすぐさま小走りで机へと駆け、その中を物色した。
「これ……ですかね?」
 若草色の筆箱をかしゃかしゃ振ってみせると、コハルは嬉しそうにぴょこんと跳び跳ねた。
「はいっ、それです、ありがとうございます! よかったあ……!」
 コハルは我が子と対面するかのように、大切に筆箱を抱き締めた。そして、ちらと僕を見たコハルは、そろりと僕の背中に隠れるのだった。
 カザミと正面から対峙する。首から下がったヘッドホンを片手で押さえつつ、僕のことを眼差しで射殺したくて仕方がないといった様子だった。こういう姿を見ると、興味本位で一歩前に出たくなる。そしたらカザミはほんの一瞬怯えた表情を見せるだろう。プライドだけで僕の前に立ってることが、きっとよく分かるはずだ。
 もちろんそんなつまらないことはしない。そんないじわるをしたって、僕の得にはならないからだ。彼女のプライドは高い。孤高で、折れることを知らない。だけど、その一方で、僕だけがその孤高のプライドを折ることができるのだ。
 方法は簡単だ。片手を上げるだけでいい。小さく悲鳴を上げてしゃがみ込むだろう。これが僕とカザミの関係だ。カザミにとっての唯一のアキレス腱。
 では、僕がどうしてカザミに対してマウントを取らないのか。これを説明できる人間がどれだけいることだろう。弓道部の連中の表情は、一同揃って「こいつは何を考えているのか分からない」だ。だから僕のことを〈幽霊〉呼ばわりするのを厭わないのだ。
「まったくお騒がせな子なんだから……」
 チアキは、にへらと笑うコハルに対して、妹を見守るような視線を投げた。この教室でただ一人、チアキだけは僕のことを分かってくれる。僕はチアキの日常が壊れないのであれば、ただそれだけでいい。
 そしてチアキは僕を見るのだ。
「マナツ、アンタは口出ししないで」
「え」
「余計なのよ」
 チャイムが鳴った。そして、窓のカーテンがざあっと舞った。
 風が吹いている。
「うおーい、入口で渋滞をつくるなあ」
 折節がやって来た。いつものように時間丁度のタイミングだ。コハルは僕らに会釈をし、去っていった。さあ、僕も席に着こうか。
 それと、風にねっとりとした磯臭さを感じた。波際ほどではないが、この匂いは港を歩いたときのことを思い出す。
 風は吹きぬけて、僕の心の隅っこに、奇妙な違和感を抱いていることに気がついた。でも、それは気のせいだ。
 気のせいだということに、した。

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湘南・大磯を舞台にした、
四季巡る青春小説、その第一章。

◤ ──好きです。
   を、伝えたいから。 ◢

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